カラヤンの「ドン・ジョヴァンニ」(1987Live)を観て思ふ

mozart_don_giovanni_karajan_dvd例えば「椿姫」は、主人公のヴィオレッタが肺病でやつれてそのまま最期を遂げるという物語だが、それを演じる歌手が健康的に太っていたりするととても違和感を覚える。演出上、歌手の風貌、容姿がこれまでも今も大きな問題になるのは周知の事実。

カラヤンが晩年にザルツブルク音楽祭で上演した「ドン・ジョヴァンニ」の映像を観て思った。ミヒャエル・ハンペの演出ということだが、幾何かはカラヤンの指示も反映されているだろうと思うカラヤン流の、当時とすれば極めて洗練されていたであろう舞台は、装置もシンプルながら台本の指定を大幅に壊すことなく観る側にも大いに安心感が与えられるのだが、どうも配役にしっくりこないところがある。サミュエル・レイミーのドン・ジョヴァンニ、アンナ・トモワ=シントウのドンナ・アンナはまだ良いにしても、キャスリーン・バトルのツェルリーナ、あるいはユリア・ヴァラディのドンナ・エルヴィーラはいかがなものか?あくまで個人的な趣味の問題もあろうが、ドン・ジョヴァンニに負けず劣らず、おそらくエゴイストであろう2人のキーパースンを演じるには、そう見えない外見がどうにも受け容れ難い。

このオペラの鍵はドンナ・エルヴィーラだ。彼女はドン・ジョヴァンニに恋をし、諦めきれない嫉妬心の塊。この人を軸にこの物語を注意深く見てゆくと本当に面白い。

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
サミュエル・レイミー(ドン・ジョヴァンニ、バリトン)
アンナ・トモワ=シントウ(ドンナ・アンナ、ソプラノ)
エスタ・ヴィンベルイ(ドン・オッターヴィオ、テノール)
パータ・ブルシュラーゼ(騎士長、バス)
ユリア・ヴァラディ(ドンナ・エルヴィーラ、ソプラノ)
フェルッチョ・フルラネット(レポレロ、バス)
キャスリーン・バトル(ツェルリーナ、ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1987.7.18-31Live)

女は怖いと思う。女たらしで、女に関しては百戦錬磨のドン・ジョヴァンニがこの日に限ってはすべてがうまくいかない。その裏にドンナ・エルヴィーラの怨念、復讐心が潜み、間違いなくそのことに左右されるかのよう。あるいは、いかにも「清純派」の衣を借りるツェルリーナこそ男好きの尻軽な女。でないと、ドン・ジョヴァンニの執拗なアプローチにああも簡単にはなびくはずがない。
第1幕第7曲の有名な二重唱「あそこで手をとり合おう」は、ベートーヴェンやショパンなど、後世の作曲家がインスパイアされた美しいメロディの音楽だが、この場面など、ツェルリーナのそういう「軽薄さ」をいかにも物語るもの。そこにキャスリーン・バトルの声質はともかく容姿はどうにも合わない(と僕は思う)。

モーツァルトはフリーメイスン思想を獲得するにつけ、全宇宙のすべてがひとつであり、そもそも西洋二元論的な見方を否定したのだろう。少なくとも男性優位の封建社会にあって、威張り腐った男が奈落に突き落とされるというストーリーの態を持ちながら、その裏に女性の不純さ、そして執念深さまでをも織り込むことで、逆にすべてが平等にできていることを示唆する作品なのでは。確かに「男」は罰せられるのだが、本当の仕掛人はあくまで「女」だと。

このオペラが初演当時、プラハで大絶賛だったことが興味深い。その時の聴衆がどこまで深読みできたかはわからないが、少なくともあの町は急進的な人々が集まっていたのかも・・・。そんなことを想像させてくれるのである。

晩年のカラヤンの指揮姿は神々しい。序曲における、自身を演出する相変わらずの映像処理には疑問もあるが、音楽は実にストレートで、その後の全体の活き活きとした音楽作りに舌を巻く。

モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」で男を否定し、次の「コジ・ファン・トゥッテ」で女を否定する。しかし、それらはいずれも対異性との平等性を明らかにするための手段。そして、ついに「魔笛」で悟るのだ。

カーテンコールでの聴衆のスタンディング・オベイションが半端でない。

 


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