鳥羽泰子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」第4巻を聴いて思ふ

mozart_yasuko_tobaようやくこの頃になってモーツァルトの「意味」がきちんと解るようになってきた。
この際片っ端から彼の音楽を聴き続けたいという欲求に駆られるが、なかなかそうもいかない。特に、ウィットに富んだ、それでいて自然体の演奏(たった今目の前で弾いていただいているような)を耳にすると金縛りにでも遭ったかのように戦慄を覚える。それは、まるで時間が止まっているかのような錯覚。

当時はそれほど良いとは思えなかった演奏でも、年を重ねて久しぶりに耳にした時、大変な衝撃を味わったという経験も多々。まさにエトヴィン・フィッシャーが老子の下篇(徳経)第63章を引用し、モーツァルトの真髄を語ったあの境地。

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし、少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易より作り、天下の大事は、必ず細より作る。是を以て聖人は、終に大を為さず、故に能く其の大を為す。夫れ軽諾は必ず信寡く、易しとすること多ければ必ず難きこと多し。是を以て聖人は猶お之を難しとす。故に終に難きこと無し。

怠惰とは異なる、「ただ在る」という囚われない生き方をして初めてモーツァルトがわかるとフィッシャーはいう。ならば、僕などはまだまだ。ブルーノ・ワルターは70歳にしてようやくモーツァルトを真面に振れるようになったというのだから、生きてわずか半世紀の僕はようやく「モーツァルト道」の入口に立ったようなものだ。じゃりん子なり。

モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
・ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
・ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457
・ピアノ・ソナタ第18番ヘ長調K.533およびK.494
鳥羽泰子(ピアノ)(2006.2.28録音)

ちなみにK.457。モーツァルトに珍しい短調作品で、最初の楽章は後のベートーヴェンを思わせるスケールを誇り、ウィーン時代の絶頂期に何を思ってこういう音楽を書いたのかとても興味深い。何より続く第2楽章アダージョの得も言われぬ静かな透明感と優しさが、実に当時の彼の心境を表すようで(順風満帆でありながら決して天狗にならず、あくまで聴衆に喜んでいただける音楽を書こうとする謙虚さ)、こういう美しさにこそ惚れ込んでしまう。そして、フィナーレのモルト・アレグロの一切を悟ったかのような暗い愉悦・・・。ここには真冬の乾いた寂しさがある。
素晴らしいのはK.332。この音楽は、モーツァルトのソナタ中最高傑作の最右翼。第1楽章第1主題の前向きな人生を謳歌する調べに高校生の僕は卒倒した。この音楽を聴くだけで僕はいつも心躍った。そのことは、今でも変わらない。
モーツァルトのソナタのすごいところは、両端楽章と中間楽章の対比が優れているところと、あくまでそれらが完全に一体となっているところである。そして、繰り返して書くが、「すべてがひとつであること」を無意識に承知で書いた、いや書かされたとしか思えない「音楽的絶対」があるところ。

僕はいまだ鳥羽泰子さんの実演に触れたことがないけれど、例えば彼女はどんなベートーヴェンを演奏するのだろう?真に興味深い。

 


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