アシュケナージ、パールマン&ハレルのブラームス三重奏曲作品101(1991.2録音)を聴いて思ふ

brahms_trio_3_ashkenazy_perlman_harrell368気のせいか春の気配を感じる。
何かが蠢き、新しいものが誕生する時のような光溢れる感覚とでも言おうか。

第1楽章アレグロ・エネルジコ冒頭から凝縮された厳しさ。
精神が最も安定し、充実していた時のヨハネス・ブラームスの作品に通底する確信的重厚さと、その背面にある慈愛の心。
第2楽章プレスト・ノン・アッサイにおける躍動感。
そして、第3楽章アンダンテ・グラツィオーソでのまるで恋人にでも内緒で語りかけるような優美さと愛らしさ。さらに終楽章アレグロ・モルトでの、抑圧されし精神の解放と昇華のドラマ。
わずか20分強で駆け抜けるハ短調三重奏曲は、真に名曲である。

ウラディーミル・アシュケナージ。
イツァーク・パールマン。
リン・ハレル。
それぞれのソリストが自己を主張し過ぎることなく、正しく調和を刻む。
一見、調った危なげのない演奏だが、内実パッションはめらめらと燃え上がる。
アシュケナージのピアノの相変わらず踏み外しのない正統さ。また、パールマンの滑らかで芯のあるヴァイオリンの音色に釘付け。そして何より両者をつなぐハレルの意味深く優しげなチェロの響き。

ブラームス:
・ピアノ三重奏曲第3番ハ短調作品101(1991.2録音)
・ピアノ三重奏曲イ長調遺作(1991.4録音)
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
イツァーク・パールマン(ヴァイオリン)
リン・ハレル(チェロ)

ブラームスの音楽は人間臭い。壮年期のものでも晩年のものでも、あるいは初期の習作でも、いかにもブラームスのそれだとわかる、エネルギーが内側にこもった、すなわち自身の閉じられた心を具に描く私的音楽なのである。
ちなみに、1925年になって発見された遺作のトリオは20歳頃のものだろうと推定される。例えば、第3楽章レントの伸びやかな浪漫はいかにもブラームスらしい傑作ピース。何という美しさ。

金井君は一旦こう考えたが、忽ち又考え直した。なる程、dubを受けたのは余計であろう。しかし自分の悟性が情熱を枯らしたようなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。Michelangeloは青年の時友達と喧嘩をして、拳骨で鼻を叩き潰されて、望を恋愛に絶ったが、却て60になってからVittoria Colonnaに逢って、珍らしい恋愛をし遂げた。自分は無能力では無い。Impotentでは無い。世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうにかすると、その背に騎って、滅亡の谷に堕ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている。羅漢に跋陀羅というのがある。馴れた虎を傍に寝かして置いている。童子がその虎を怖れている。Bhadraとは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。只馴らしてあるだけで、虎の怖るべき威は衰えてはいないのである。
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」(新潮文庫)P96-97

ブラームスの2つのトリオを聴いて、鴎外のこの最後の一節を思い出した。

 

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