ベートーヴェン×リスト vs ベートーヴェン×ワーグナー

フランツ・リストもリヒャルト・ワーグナーも類稀な音楽的才能を授かり19世紀に活躍した天才である。いずれも非常に自己顕示欲の強いタイプに属すると思うが、どちらかというと僕には前者の方がよりその傾向が強いように感じられる(一般的にはあまりに自己中心的で人間的に破綻を起こしているのはワーグナーの方だと思われがちだが)。
真相はわからない。2人に直接会ったことがないから。
それでも、少なくともこれまで彼らの生涯を伝記で辿り、作品を十分に聴いてきた視点からするとどうもそう思えてならないのである。ワーグナーの場合、特に自らの作品を”Musikdrama(楽劇)”と呼ぶようになってからはどちらかというと彼の悪いと言われる性格の方が作品を支配するけれど、初期のものはとても初々しく、素直で、先人の智慧というものを謙虚に受け入れながら創作活動を続けた賜物のように僕には思える。
試しに、ワーグナーが生涯尊敬し続けたベートーヴェンの第9交響曲を若い時分に独奏ピアノ用にアレンジした作品を聴いてみるが良い。ベートーヴェンの思想を100%受け継ぎ、不要な音は混在させず(つまり、自分の色合はできるだけ出さず)、一切の「我」を捨てて、作品に奉仕していることがわかる。何だかとても「素直」で「素朴」な響き。

一方の、リストのピアノ編曲版はどうか。リストの場合、当時まだまだ一般的には理解され難かったベートーヴェンの、特に後期の作品を世に広めるために尽力したことは有名な話で、そのことはとても評価に値する仕事なのだけれど、やっぱりリストはリスト。そのヴィルトゥオジティを誇示することは避けられず、どうしてもベートーヴェン=リスト作の音楽となってしまっているところが興味深い。簡単に言うと「華美」なのである。

ちなみに、なるほど「作曲」という行為というのは面白いものだと素人ながら感じたことを書かせていただいているのであって、もちろんどちらが良い、悪いと言っているのではない。性格というのは音楽に間違いなく反映される、と。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」(1831年ワーグナー編曲版)
小川典子(ピアノ)
緋田芳江(ソプラノ)
穴澤ゆう子(アルト)
桜田亮(テノール)
浦野智行(バス)
鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(1998.5.18-20録音)

ピアノの響きとバランスをとるためかBCJの合唱は少人数だけれど、それがかえって澄んだ音色を生み出し、第9交響曲の「宗教的」な側面が強調されるようで興味深い。若きワーグナーの楽聖に対する畏怖と尊敬の念が如実に反映される秘曲であり、名録音であると思う。
さて、リストの方はかつて聴き込んだ有名なカツァリス盤。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」(リスト編曲版)
シプリアン・カツァリス(ピアノ)

まぁ、これくらい超絶技巧を振りかざして聴衆にアピールしないことにはベートーヴェンの作品というのは理解されなかったのだろう。目立ちたがり屋フランツ・リストにとってはうってつけの素材。とはいえ、さすがにリストも並の人間ではない。自身の味付けを相当に施しながらもベートーヴェンの「色」は決して侵蝕しない。リストの創作の中心が宗教音楽に傾くローマ時代(1861-69)の仕事ということもあるのだろうか、第3楽章から終楽章にかけての「祈り」にも似た音調が聴く者に感動を与える。

常時聴いてみたいと思うのはこっちの方だから、音楽ファン、一般大衆の心を掴むのはリストの方が一枚上手ということか(ワーグナーの方は17歳の時の仕事だというハンディもあるけれど)。


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