しかし彼(ブーレーズ)は、まるで猫のような狡猾さで、瞬時にして獰猛な動物に変貌し、人をやっつけて議論を終わらせるやり方を心得ていた。優れた政治家でもあって、説得の術にも攻撃の術にも長けていた。どんなときにも、自分がしていることに絶対的な確信を持っていたようだった。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P376
血気盛んで、意地の悪いほど智恵の働くブーレーズの音楽は、その意味では難解だ。特に、青年期のブーレーズの作品のライトモティーフは、激しさであったとアレックス・ロスは言う。
あらゆる概念を破壊し、そこから新たなものを生み出そうとする方法はもちろんポピュラー音楽にも通ずる。1948年にブーレーズは次のように書いている。
音楽は激しく現代という時代を表す、集団ヒステリーであり魔術であるべきだと私は思う。
~同上書P378
納得。
しかしながら、それから年を重ねるごとに少なくとも指揮者としてのブーレーズの音楽は随分変化してゆく。いや、この言い方は違うかも。外面はともかくとして、彼の生み出す音楽の内面の激情はどの時代も一切変わることないのだから。
2008年8月15日、ピエール・ブーレーズがBBC交響楽団を指揮した一夜の録音を聴いた。オール・ヤナーチェク・プログラム。いわゆる海賊盤(CD-R)である。残念ながら音質は音圧ともにいまひとつ。しかしながら、内面の激情を秘めたブーレーズの音楽の特長は相変わらず。
ヤナーチェク:
・シンフォニエッタ(1926)
・カプリッチョ「挑戦」(1926)
・グラゴル・ミサ(1926-27)
ジャンヌ=ミシェル・シャルボネ(ソプラノ)
アンナ・ステファニー(メゾソプラノ)
サイモン・オニール(テノール)
ペーター・フリート(バス)
サイモン・プレストン(オルガン)
ジャン=エフラム・バウゼ(ピアノ)
BBC交響合唱団
ロンドン交響合唱団
ピエール・ブーレーズ指揮BBC交響楽団(2008.8.15Live)
沸々と怒りの湧き立つシンフォニエッタ。とはいえ、ブーレーズは決して暴走しない。あくまで冷静に、そして計算高く(?)ヤナーチェクの晩年の心情を再現するのである。
また、カプリッチョに見え隠れする、プロコフィエフにも通じる愉悦と懐古。ここでもブーレーズの再現は一見淡々でありながら完全。素晴らしい。
そして何より「グラゴル・ミサ」(極美の合唱)!!
あくまで世俗のために書き上げたその動機は、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲に近いだろう。しかし、楽聖のものと同様、音楽の深遠さは並大抵でなく、聴くたびに新たな発見をもたらしてくれる。この傑作に新たな息吹を送るブーレーズの天才。すべてが理想的に響く。
それにしてもこの理知的でありながら深い祈りに溢れる表現の原型はどこにあるのだろう?普通ならもっと表層的になって良いはずなのに・・・。
これは実演で聴いてみたかった。
不可欠のものとして、自分自身への忠実さということがあります。アカデミックな忠実さと成り果てるような忠実さに凍結してしまうのはいけません。しかし、もし進歩を望むのならば、人びとが為したことを忘れないということも有益になってきます。さもなくば、堂々巡りに終わり、一貫性のない見解を持つというおそれがあります。
~ピエール・ブーレーズ/店村新次訳「意志と偶然―ドリエージュとの対話」(法政大学出版局)P188-189
ブーレーズにとって挑戦こそがすべてなのであろう。
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・・・・・・1951年12月の手紙(『書簡集』No. 35)で、ブーレーズはケージが《易の音楽》で使った音高と持続と音量のチャートについて触れ、いま自分がやっているのと「まったく同じ方向性」だと述べる。そしてそのうえで、「たったひとつ満足できないのは、絶対的な偶然性(コイン投げによる)だ」、とあえてはっきり言った。「それとは逆に、僕は偶然性は厳密にコントロールされなくてはならないと思う。一般的な表や、あるいは一連の表によって。書かれたものであろうとなかろうと、偶然性のオートマティズム(自動化)という現象を方向づけることは可能だ…。僕は『自動書記(オートマティック・ライティング)』と呼ばれるものにはちょっと懸念を持っている。というのは、それはたいていコントロールの欠如のことだからだ…」。そしてさらに返す刀で、フェルドマンにも切りかかる。当然ながら偶然性が介在するフェルドマンの図形楽譜をやりだまにあげ、フェルドマンを評価しないのは「これまで行なわれてきたことすべてからの後退を示しているからだ」と説明する。そしてその後は、何ごともなかったかのように、ブーレーズ自身のトータル・セリアリズムの手法の説明を延々と続けるのである(ちなみにこの手紙の一部の写真が、 J・ ペイザーの『ピエール・ブーレーズ』のなかに掲載されている)。
1952年のアメリカ訪問後、ケージとブーレーズの仲は疎遠になっていった。手紙もまばらとなり、交わされたとしても、ミュジック・コンクレートやテープ音楽の話題が多くなる。そうしたなかで、1954年、ブーレーズはふたたび偶然性の問題をとりあげる。「僕は偶然性を完成された作品の要素として認めません——またこれからも認めないと思います。僕は厳格な音楽あるいは自由な音楽(拘束されていようといまいと)の可能性を広げていきます。しかし、偶然性にかんしては、そうした考え自体が耐えられません!」(『書簡集』No. 45)。・・・・・1951年12月の手紙(『書簡集』No. 35)で、ブーレーズはケージが《易の音楽》で使った音高と持続と音量のチャートについて触れ、いま自分がやっているのと「まったく同じ方向性」だと述べる。そしてそのうえで、「たったひとつ満足できないのは、絶対的な偶然性(コイン投げによる)だ」、とあえてはっきり言った。「それとは逆に、僕は偶然性は厳密にコントロールされなくてはならないと思う。一般的な表や、あるいは一連の表によって。書かれたものであろうとなかろうと、偶然性のオートマティズム(自動化)という現象を方向づけることは可能だ…。僕は『自動書記(オートマティック・ライティング)』と呼ばれるものにはちょっと懸念を持っている。というのは、それはたいていコントロールの欠如のことだからだ…」。そしてさらに返す刀で、フェルドマンにも切りかかる。当然ながら偶然性が介在するフェルドマンの図形楽譜をやりだまにあげ、フェルドマンを評価しないのは「これまで行なわれてきたことすべてからの後退を示しているからだ」(傍点筆者)と説明する。そしてその後は、何ごともなかったかのように、ブーレーズ自身のトータル・セリアリズムの手法の説明を延々と続けるのである(ちなみにこの手紙の一部の写真が、 J・ ペイザーの『ピエール・ブーレーズ』のなかに掲載されている)。
1952年のアメリカ訪問後、ケージとブーレーズの仲は疎遠になっていった。手紙もまばらとなり、交わされたとしても、ミュジック・コンクレートやテープ音楽の話題が多くなる。そうしたなかで、1954年、ブーレーズはふたたび偶然性の問題をとりあげる。「僕は偶然性を完成された作品の要素として認めません——またこれからも認めないと思います。僕は厳格な音楽あるいは自由な音楽(拘束されていようといまいと)の可能性を広げていきます。しかし、偶然性にかんしては、そうした考え自体が耐えられません!」(『書簡集』No. 45)。・・・・・・ジョン・ケージとピエール・ブーレーズ(6)──偶然性の問題 掲載: 2012年03月05日 16:23 ソース: intoxicate vol.96(2012年2月20日発行号)文/柿沼敏江 より
http://tower.jp/article/feature/2012/03/5/cage_boulez/6
私はケージの「偶然性」に惹かれますが、今の国際社会でより重要視されるべきは、ブーレーズのような「規律」でしょう。
必然的に、理想は「規律の中の偶然性」「規律の中の自由」になるんだと思います。
>雅之様
クランボルツのキャリア論である「計画された偶発性」のことを思いました。
ケージにおける「偶然性」というのも、大局的に見ればあるルールの中で起こるものだと思います。
若きブーレーズは少々頑なになり過ぎたのかななどとも思ってしまいます。
すべては実は規律の中にあり、僕たちが偶然だと思っていることも必然だったりしますからね。
少なくとも人間には見えない、聴こえないなど知覚できないことが多過ぎるので、このあたりは誰と議論をしても思想がぶつかるだけで埒は明かないでしょう。
偶然が必然か必然でないか、などということよりも、実演において、演奏会場での偶然やアドリブ、ハプニング等をどう楽しめるかどうかでしょうね。
ケージがレコードを「景色を台無しにしてしまう絵葉書」と呼んだのには全く同感ですが、iPod shuffleに様々なクラシックの曲を入れておき、様々な作曲家の様々な楽章をランダムに、選ばれ勝手順に聴く意外な展開は、じつに楽しく病み付きになりそうな面白さです。ミューズの女神様たちがサイコロを振ってくれるのです・・・、こういうのはケージが生きていたらさぞかし喜んだと思います。
>雅之様
>実演において、演奏会場での偶然やアドリブ、ハプニング等をどう楽しめるかどうかでしょうね。
なるほど、おっしゃるとおりです。
>、iPod shuffleに様々なクラシックの曲を入れておき、様々な作曲家の様々な楽章をランダムに、選ばれ勝手順に聴く意外な展開は、じつに楽しく病み付きになりそうな面白さです。
ああ、確かに!そういう聴き方はあまりしたことがなかったですが、その偶然性の面白さはさすがだと思います。
ありがとうございます。