
昔の人々の意識にあっては、バロック音楽の演奏が私たち現代人の場合ほど大きな問題ではなかった。彼らはもっと素朴であり、自己の音楽を有し、ここからバロック音楽にのぞむ姿勢がおのずと生じたのである。ヴァーグナーおよびロマン派の時代は、バッハやヘンデルのうちにもっぱら自己自身を追求し、そこに含まれる他の要素には無関心であった。今日の私たちは、もはや自己自身を追求したりはしない。事実、このような自己はそれほど容易に発見できるものではなかろう。むしろ私たちは過去「それ自体」を追求し、これによって、より誠実な志向、より進歩した認識を得たものと信じている。
このような過去それ自体の認識がどの範囲まで可能なのかという問題には、ここでは立ち入らないことにする。いずれにせよ音楽的再現に関して言うなら、私たちがバッハやヘンデルを彼ら自身が望んだ演奏方法によって再現してみたいと願っていることは確かである。
「バロック音楽の演奏について」(1932年)
~フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P81
世界の状況が変化する中で、古典の演奏を正しく保つのはとても難しい。
作曲家が望んだ音は、むしろその時代の、その中にあっての音響ゆえ、過去に遡って知識を得ようが何にもならない。まして、当時の記譜法のほとんどがフォルテとピアノに限られており、強弱の付け方も演奏者側に依存するものであり、例えばチェンバロと管弦楽のバランスなども、楽器の性能が上り、オーケストラが巨大化する近現代にあっては(そこにホールそのものの問題も付加される)、一筋縄では行かないことをフルトヴェングラーは指摘する。
昔どおりの人員配置と同時に、なにはさておき昔のホールを再現し、昔のホールと同時に、極力、当時の聴衆の「気質」をも再現するように努力すべきであろう。ところで、その他の点でも私たちの首尾一貫性は徹底していない。今日私たちの聴く耳が以前とどれほど変化しているか、私たちの神経や理解力がバッハやヘンデルの同時代人たちの場合といかに相違しているかは、たえず繰り返して強調されてきた。にもかかわらず私たちは、省略なしのバッハ演奏やヘンデル演奏をしている。
~同上書P64
少年の頃、僕はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの実演に触れることを夢見ていた。
タイムマシーンでもない限り不可能なことだけれど、当時、様々なリリースされていたライヴ録音を耳にするにつけ、その思いはますます強くなっていった。
それから10年ほど経過した後、ドイツ・グラモフォンからフルトヴェングラーの戦時中録音がシリーズとなってリリースされた。それは、ソ連から返還された録音テープをもとにオーソライズされ、CD化された代物だった。
そしてまた、前後して、ロシア連邦メロディアから「フルトヴェングラー・ベルリン・ライヴ」としてオリジナル・テープからデジタル処理されたCDが限定発売された。果して僕はその両方の大部を手に入れたが、特にメロディア盤の驚くほど鮮明な録音に、そしてフルトヴェングラーの驚異的な演奏に、僕は震えた。
フルトヴェングラー&ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第4番(1943.6.27Live)を聴いて思ふ
「慟哭」のヘンデル、シューマン、そしてワーグナー そのいずれもが、戦時中のフルトヴェングラーの演奏のすごさを示す人類にとってかけがえのない至宝だ。
・ヘンデル:合奏協奏曲ニ短調作品6-10(1944.2.7Live)
・シューマン:チェロ協奏曲イ短調作品129(1942.10.25Live)
ティボル・デ・マヒューラ(チェロ)
・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲とイゾルデの愛の死(1942.11.8Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
例えば、ヘンデルの合奏協奏曲ニ短調。
僕たちは、後年の素晴らしいライヴ録音も持っているが(第6楽章アレグロ・モデラートがカットされている)、戦時中の、鬼気迫る状況の中で鳴らされたバロック音楽の奇蹟が、どれだけの人に勇気と喜びを与えたことか、その崇高な響きの中に読み取ることができるというものだ。先の論文にあるように、ここでは第4楽章アレグロがカットされている(フルトヴェングラーが不要にした理由は知らない)。
これをバロック音楽らしからぬというなかれ。
浪漫豊かな、ぶ厚い響きが音楽の荘厳さを一層高めており、月並みな表現をすればフルトヴェングラーの「精神性」がさらに強調された名演奏であることが明白だ。
そして、個人的にいまだに随一だと思う、「トリスタン」から前奏曲と愛の死!!
ヴァーグナーの性格は、他の芸術家たち、とりわけ大音楽家たちの性格と非常に異なっている。ふつう芸術家は自己の作品のうちに生き、なまなましい現実の豊かさを作品の内部に呪縛し、その形象化にひたすら従事するものであるが、ヴァーグナーには明らかにこのような限定が存在しなかった。彼はたんに作品とともに、作品のために生きるだけではなく、それ以上のものを意図していた。彼は人間を征服し、あらゆる方法で変革し、心底をゆさぶり、人間をその非情さ、無慈悲さ、自己中心的な閉鎖や分裂から解放しようとしたのである。作品からして途方もない要求を掲げているが、人間ヴァーグナーの要求はさらに巨大なものと映じる。人びとは、そもそも何が彼をかくも駆り立てたのかと、真剣に問いたくなるであろう。あふれるままに創造し、作品を通して自己を表示することのできた芸術家に、なおもそれが必要であったのか。あるいは、およそ世に存在した最も恵まれた芸術家の一人が、ここでは併せて最も権勢欲の強い人間でもあったということに尽きるのであろうか。
「ヴァーグナー問題—ニーチェ風の随想」(1941年)
~同上書P166
ワーグナーは少なくとも音楽の中にあって解放され、開かれていたのだろうと僕も思う。
そして、そのことを指摘するフルトヴェングラーのワーグナー解釈も恐るべき高みに達するのだ。80余年を経てなおも神々しいフルトヴェングラーのワーグナーに感動しかない。
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの「トリスタン」前奏曲と愛の死(1938録音)ほかを聴いて思ふ 