シノーポリ指揮ニューヨーク・フィルのレスピーギ「ローマ三部作」(1991.4録音)を聴いて思ふ

respighi_roma_sinopoli正論ばかりだと窮屈だ。
いい加減はだめだが、良い加減なら良しとせねば。例えば、音楽を創造するに心が大事だということ。
あまりに叙事的。その意味では最右翼。情が感じられない分飽きやすい解釈だが、眼前に広がる景色をイメージするのは容易い。

世は大戦中。
オットリーノ・レスピーギは交響詩「ローマの噴水」を書くにあたって何を思ったのだろう?壮麗で快活な水の音楽を聴くにつけ、彼が、戦争を繰り返すヨーロッパの不幸を目の当たりにし、民衆を鼓舞しようと試みたのかどうなのか、ここに表現される水飛沫の刹那的な悲しみこそが彼の本意なのだろうと僕は考えた。
第1曲「夜明けのジュリアの谷の噴水」に聴く、生きとし生けるものの誕生を髣髴とさせる、地から蠢くような音楽の神秘。シノーポリの指揮は機械仕掛けの如く繊細かつ精緻で素晴らしい。また、第2曲「朝のトリトンの噴水」における静寂は生きる喜びの見事な表現。さらには、第3曲「昼のトレヴィの噴水」の勢い余る快活さは、ワーグナーを髣髴とさせる愛の表象。ただし、シノーポリの解釈はとても現実的。そして、第4曲「黄昏のメディチ荘の噴水」での夜明けと同様の静謐な恍惚感。水が煌めく。

あるいはレスピーギは、交響詩「ローマの松」を書くにあたって何を感じたのだろう?日本では幸福の象徴となる松の、勇猛な姿を描こうとしたのか?また、行く末の栄光を信じ、輝かんばかりの未来を想像したのかどうなのか?
相応の社会的地位を得た彼の脳裏に去来したのは、より一層の自己練磨だったのか・・・。
シノーポリの音楽はますます情景描写的になる。何より細かいところまでもが克明に聴き取れる理想的なテンポによって彼は、ともかくすべてを冷静に客観視しようとしているかのようだ。

レスピーギ:
・交響詩「ローマの噴水」
・交響詩「ローマの松」
・交響詩「ローマの祭り」
ジュゼッペ・シノーポリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団(1991.4録音)

また、ファシスト(すなわちムッソリーニ)に好意的であったレスピーギは、交響詩「ローマの祭」を書くにあたって何を考えたのか?
例えば、第1部「チルチェンセス」の激震もシノーポリの棒にかかれば実に冷静沈着。続く第2部「五十年祭」の崇高な祈りは感謝の意に満ち、第3部「十月祭」の静けさに不思議な官能を覚える。音楽が美しい。
なるほど、第4部「主顕祭」の狂乱もシノーポリにかかればまるで写真を見せられるかのように客観的。

「生」は自らの手で獲得されなければならないが、しかし「生」は個人の営みにおいて完結するものではない。まぎれもない自己の生は「他者」との有機的な関係のなかにおいてあらわれるものであり、それは正しくは個を越えたものである。
「武満徹著作集1」(新潮社)P274

 

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