人と交わること、いと楽し

haydn_muti_bpo.jpgあっという間に3月も終わる。本当に月日の経過は早い。とにかく急がねば・・・。

渋谷のP社での打ち合わせのあと、桜丘町の「なぎ食堂」にてひとりランチ。マクロビ系の玄米菜食はどうも味が薄くてあまり僕の好みではなかったのだが、ここのは美味しくいただけた。といっても決して味が濃いわけではないので、ひょっとすると僕の味覚も随分変ったのかもしれない。次の銀座でのアポイントまで少々時間があったのでブック・ファーストの店内散策(それにしても渋谷のブック・ファーストが小さくなったのは痛い)。ふと見つけた松岡正剛氏の新刊が面白そうだったので購入、移動の車内でざっと目を通した。

「連塾・・方法日本・・Ⅰ『神仏たちの秘密~日本の面影の源流を解く』」

これは吃驚。日頃僕が考えていることがのっけから詳細に明記されており、思わず膝を叩いてしまった。もちろん松岡氏の博識がモノを言っているのだが、それにしても「真理」を言い当て、言い得ているところが出色である。日本民族、日本文化が本来主体をあえて曖昧にし、物事を包括的に捉えるようになっていることが冒頭から語られる。「個」の西欧文化に対し、日本は「和を以って尊しとなす」文化であることが自ずと理解できる。まだまだ最初の数ページを読んだきりなので何とも評価はできないが、これは良書だと思う。

夜、つい2週間ほど前に知り合ったO夫妻が拙宅を訪れ、4人で食事をした。気がついたら23:30を回っていた。あっという間の楽しいひと時。

ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉Hob.ⅩⅩ/1
リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

僕はムーティに関しては決して肯定的ではない。それでもいつぞや採り上げたウィーン・フィルとのザルツブルク・ライブとあわせてこのスタジオ録音盤は時折取り出しては聴く好きな音盤である。何よりハイドンが精魂込めて書いた音符の一つ一つにドラマがあり、そのドラマを見事に表現し尽くすムーティの時に見せる(笑)手腕には驚嘆の念を覚えてしまう。人間だから常にこういう演奏は当然不可能なのだろうが、ある一定のクオリティを保ちながら名演奏を残せる力量を本当は持っているのだろうから他の作曲家の楽曲に関してもこういうパフォーマンスをしてみろとついつい思ってしまう。まぁ、誰でも向き不向きはあるのだろうから贅沢はいえないのだろうが・・・。

こういう弦楽合奏の音楽が持つ「浄化」の力というのは計り知れないものがある。とにかくすべてが意味深く美しい・・・。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」は、興味はあるのですが、未聴です。ハイドンの宗教曲で聴くのは、「天地創造」の、バーンスタイン&バイエルン放送響盤くらいのものです。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/967905
常々思っていることなんですが、旧約聖書や新約聖書の「神」って、私、苦手なんです。ギリシア神話の「神」のほうが、よほど親近感が湧きます。スポーツ選手がよく使う、「勝利の女神(ヴィクトリア)」とか、「音楽や詩の女神(ミューズ)」とかは、特に信じたいですね(笑)。
私は仏教の教えを重んじていますが、日本人なので、キリスト教の協会より神社のほうに神聖なものを感じます。
岡本さんは、古事記や日本書紀の「神」と、ギリシア神話やローマ神話や北欧神話の「神」と、旧約聖書や新約聖書の「神」を、同じように信じておられますか?あるいは、究極的には同じ「神」だとお思いですか?

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ハイドンのこの曲はいい曲ですよ。特に言語を伴っていないゆえ、「自由に聴ける」ところがとても楽です。
>キリスト教の協会より神社のほうに神聖なものを感じます。
僕も神社の方が「いる」って感じますね。特に俗化されていない神社は格別です。
>岡本さんは、古事記や日本書紀の「神」と、ギリシア神話やローマ神話や北欧神話の「神」と、旧約聖書や新約聖書の「神」を、同じように信じておられますか?
うーん難しいですね・・・、何と答えていいのか・・・。ただ、究極的には同じ「神」だと思います。この問題はまた機会をもってゆっくり語りたいですね。

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kevala

岡ちゃんさん
21日から家庭内騒動がありバタバタでして、それから22日最高のお酒を飲み、それから財布がなくなり、まだでてこないのですが、最高に楽しかったので・・探し物ってことで自宅まですみませんでした・・・
↓↓↓
日本民族、日本文化が本来主体をあえて曖昧にし、物事を包括的に捉えるようになっていることが冒頭から語られる
これから政治の道に入っていこうとする私には必要な本かと思います。
読んでみます。
あえてあいまいにして・・・お金の管理もあいまいで本当にいいのでしょうかということなんですが。非常に悩ましい。
あえてあいまいにする文化を受け入れるのか・・肯定しつつも、お金に関しては国民のお金をお預かりしているわけで、天下り然り、社会システムあいまいにはできないと思うのです。
なんとも衝撃的な日本文化の弊害。

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岡本 浩和

>kevalaさん
コメントありがとう。財布の件は大変だけど、まぁそれも意味あることでしょう。この本は多分面白いと思うのでぜひ!
>あえてあいまいにする文化
曖昧というのは言葉の綾で、「すべてを包括する」ということに近いですね。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ケルビーニ万歳!

[…] それこそ僕はリッカルド・ムーティの指揮に感動したことがなかった。 昔、ウィーン国立歌劇場で「フィガロの結婚」を観た時もそう。音盤でも、彼のモーツァルトやブルックナーなど一向に心を動かされなかった。 でも、いつぞやハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を聴いて(ベルリン・フィルとのスタジオ録音とウィーン・フィルとのザルツブルク音楽祭ライブがあるが、2種とも)、すごく感激した。これはもちろん楽曲が優れていることに依るのだけれど、ムーティがモーツァルトを振る時の心構えと「何か」が違うように思われた。 同じくルイジ・ケルビーニのミサ曲等を収めたボックス・セットについて、いずれの作品も新鮮な喜びと敬虔な祈りに満ち、あのムーティが音楽を創っているんだとすっかり忘れてしまうほどインパクトが大きい。 […]

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