思う人に思われず、思わぬ人に思われて、こと恋愛については人生思い通りにいかぬもの。生涯独身を貫なかざるを得なかったベートーヴェンは人一倍傷つきやすい性質の持ち主だった?
1810年、ベートーヴェンは18歳のテレーゼ・マルファッティに結婚を申し込んだものの断わられ、大きなショックを受けた。この年の夏に完成を予定していた第7番の完成は翌年3月にずれ込んだのはそのためでもある。
(解説:長谷川勝英)
~PROC-1867/70ライナーノーツ
「大公」トリオの音調は、失恋という挫折からようやく逃れたベートーヴェンの復調の兆しを示すように明朗かつ奥深い精神性を秘める。
いざさらば、敬愛するテレーゼ。あなたにこの人生にあらゆる素晴らしい、美しい事物のあらんことを。私のことを心に留めておいてください―私よりもあなたに明るい、幸福な人生を望める者などおりません―万一、あなたがそんなことを気にも留めていなかったとしても。
(1810年、テレーゼ宛手紙)
何という自負。ベートーヴェンの天才の飛翔。
ベートーヴェン:
・ピアノ三重奏曲第6番変ホ長調作品70-2
・ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調作品97「大公」
ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)
ヘンリク・シェリング(ヴァイオリン)
ピエール・フルニエ(チェロ)(1970.8録音)
第1楽章アレグロ・モデラートの、ケンプによるピアノ序奏の愉悦。そこに、フルニエのチェロとシェリングのヴァイオリンが交差しつつ乗り、音楽は一層喜びに溢れる。果たしてベートーヴェンは本当に落ち込んだのだろうか?
第2楽章スケルツォは、何事もなかったかのように明朗。いや、悲しみをあえて誤魔化そうと音楽は躍動するのか?しかし、さすがにトリオは暗い。ここに彼の本音があるのだろう。
そして、第3楽章アンダンテ・カンタービレ,マ・ペロ・コン・モート―ポコ・ピウ・アダージョの自身を癒すかのような慈悲。ケンプ、シェリング、フルニエの完璧な調和は涙が出るほど美しい。
さらに、静かな祈りを破る終楽章アレグロ・モデラートの解放。
ベートーヴェンの魂が一層昇華される。
ちなみに、変ホ長調トリオは第1楽章序奏ポーコ・ソステヌートから深淵のような哀感を湛えるものの、アレグロ・マ・ノン・トロッポの主部において曇りが解け、空気が一変する。その晴朗を表現する三者の演奏は同じく見事な協調を示す。
緩徐楽章を持たないこの三重奏曲の第3楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポがまた一層美しい。名演だ。
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私は、ベートーヴェンが後期の弦楽四重奏曲を書いていた年齢になりまして、もはや中期作品をあえて積極的に聴きたい心境ではなくなりました。異性への興味は減退しませんが・・・(それだけは何故か別腹・・・困りますねぇ・・・笑)。こういう感慨はその年齢になってみないと真実味をもって迫ってこないものだと、つくづく実感しております。
中期作品は今でも好きです。ただ、それらを聴いても懐かしさを憶えるだけで、今の私は今の私です。ベートーヴェン中期だけでなく、あれほど心を焦がして聴いたシューマンの若いころのピアノ傑作諸作品を聴いても同様なので、これまた困ったものです。
逆に、モーツァルトやシューベルトには未だにそういう気持ちにならないから、不思議です。
>雅之様
あっという間に時間を駆け抜けたモーツァルトやシューベルトが行き着いた世界を共有するのは凡人にはなかなか難しいのだと思います。
特に、彼らが晩年の創造した作品群は言語を絶する美しさですから人間業を超えています。
ベートーヴェンの中期にせよシューマンの初期の作品にせよ「懐かしさ」を覚えるだけですと、なんだか空しさを感じますよね。ただ僕はベートーヴェンについては初期にせよ中期にせよ無条件に心奪われます。
今回も、私のコメント、切り口が凡庸でくだらなかったですね。
クラシックの座標軸の中心を、バッハに置くのか、モーツァルトに置くのか、ベートーヴェンに置くのかといった好みの違いだけでしょうね。所詮「コップの中の嵐」で、外野の人々にとっては、そこに大した違いはないんでしょう(笑)。
ベートーヴェンの中期には、フランス革命からその後に至るまでの戦いの、大砲や銃器などの硝煙の香りが良くも悪くも随所にそこはかとなく漂います。それに胸躍るかどうかというのもポイントのひとつかも。
あっ、辛口で闘争好きだから、やっぱり胸躍るわ!!(爆)
>雅之様
いえ、決してくだらなくないです。
いつもにはない真っ直ぐなコメントで、むしろ考えさせられました。
>それに胸躍るかどうか
なるほど!!
やっぱり胸躍りますね。(笑)