少しばかりとんがっていて・・・

昨晩、久しぶりに映画を観た。黒澤明監督の「生きる」。昭和27年の制作だからかれこれ60年前の作品ということになる。もちろんモノクロの古い映像なのだが、作中の人物の動きや描写などは「生きる」というタイトル通り実に活き活きしており、2時間20分という時間があっという間に過ぎた。何より個性派俳優ぞろいで(主演の志村喬は最高だが、左卜全の何とも表現しがたい上手さよ)、皆演技が抜群にうまい。

現代はどこの世界でも「優等生」が幅をきかせる。決して悪いことではないが、一方で「面白み」が失せているということは間違いない。教える側からすればこれほど都合の良い状況はないが、大学生も極めて真面目で、右向けといえば何の疑いもなく右を向く。果たしてこれでいいのか・・・。少しばかりとんがっていて、一筋縄ではいかない輩がいたって良いと思うのだけど。

ところで、先の黒澤映画が作られていたちょうど同じ頃のザルツブルク音楽祭の記録。ほとんど真面目に聴かず、棚の奥に埋れていたものを、最近Testament社から復刻され評判を呼んでいる同じ指揮者の戦時中録音をショップで立ち聴きし(まだ買っていないが、僕が所有しているのはドイツ・グラモフォンの輸入盤)、重心のしっかりした熱いうねりのある超絶解釈に耳を疑い、つい触発されて手元にあるこの音盤を取り出した。

ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.8.19Live)

古い録音だが、会場の熱気と、聴衆が息を飲みながら微動だにせず巨匠の演奏に釘付けになっている姿が見える。「生きる」という映画もそうだが、古い記録を超越して観る者、聴く者に訴えかけてくるエネルギーが並大抵でない。

こういうブルックナーを昔僕はとある評論家の影響を受けて毛嫌いしていた。でも、「ブルックナーらしい」、「らしくない」の基準って一体何だろう?後世の我々が天才について尺度を設けるのも実におかしな話であることに今頃気づいた・・・。フィナーレ、コーダの壮絶な金管の咆哮を聴きながら、これほど血の通った演奏が―活き活きとした演奏をほとんどまともに顧みず否定していた自分自身が情けなくもなった。

黒澤明もフルトヴェングラーも、稀代の「天才」である。
感謝・・・。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

確かに昔は今よりも魅力的な時代でしたが、「ALWAYS 三丁目の夕日」のように、戦後社会を美化したくはないですね。そこに住んできた先輩達が、今日のような駄目な日本の基盤を作ってきたのに、リタイアしたらまるで都合の悪い部分には知らぬ顔で、現役の後輩には楽観論だけを説く・・・、そんな人が多過ぎて悲しくなります・・・、まあ、相手にする暇も余裕もこっちにはないですが。

>現代はどこの世界でも「優等生」が幅をきかせる。

「優等生の国」日本も、世界から客観的に評価されたら?

小泉進次郎氏が自民党の会合で、じつに鋭い主張をしています、たとえそれが大衆受け狙いのポーズだとしても、正しいとしか言いようがありません。
「自民党には3つの大罪がある。
1つは少子高齢化社会が来るとわかっていたのに社会保障制度を整備しなかったこと。
2つは900兆円もの国の借金を作ったこと。
3つは原発を安全といいながら推進し、事故を起こしたこと」(週間文春 最新号より)

「裸の王様」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98
に、「王様は裸だよ!」と叫べる元気のある若手の台頭が、どの世界でも必要ですね。

「生きる」は「お役所仕事」を痛烈に批判した傑作ですが、今の日本は、役所も民間も、上映当時よりも、もっと自分の信念や主張を組織の中で主張しにくい社会になり果てていると感じます。昔も今もアカンのは同じです。

「原子力村」という言葉が流行っているでしょう。この映画の話でちょっと思い出しました。
・・・・・・原子力村(げんしりょくむら)(英語 (Japan’s) Nuclear Power Village[1])とは原子力技術を用いた産業、特に原子力発電に関係する電力会社、プラントメーカー、監督官庁、原子力技術に肯定的な大学研究者、マスコミ、業界誌等をくくった集団のひとつの呼ばれ方である。村社会の独特の色彩をもつ排他的利益集団という側面になぞらえて「村」がつけられている(同様の〇〇村という表現に「金融村」がある[2])。主に日本の原子力撤廃論者により揶揄的に使われている。

この語を改めて定義している例は珍しいが、それによれば、原子力村とは「原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家と企業、研究者の集団」を指すとしている。漫画作品「白竜」の「原子力マフィア編」も同様の癒着集団を指している。・・・・・・
(中略)

住民の特徴
(中略)
体質が閉鎖的である
言葉は丁寧だが、自分達の非は決して認めず、言い分だけを強調する
木で鼻をくくったような対応をする者がいる
都合の悪い問いにまともに答えようとしない
相手をやり込めた後「素人のくせに」と仲間内で嘲笑する者が居る・・・・・・ウィキペディアより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%9D%91

>こういうブルックナーを昔僕はとある評論家の影響を受けて毛嫌いしていた。でも、「ブルックナーらしい」、「らしくない」の基準って一体何だろう?後世の我々が天才について尺度を設けるのも実におかしな話であることに今頃気づいた・・・。

「クラシック村」に住む住民っていうのも、「原子力村」にとてもよく似た社会だと痛感するばかりです。もちろん自己批判も含めて、ですね(笑)。

《クラシック村 住民の特徴》
体質が閉鎖的である
言葉は丁寧だが、自分達の非は決して認めず、言い分だけを強調する
木で鼻をくくったような対応をする者がいる
都合の悪い問いにまともに答えようとしない
相手をやり込めた後「楽譜も読めない素人のくせに」と仲間内で嘲笑する者が居る

自分を含め、もっと多様性を認めなきゃいけませんね、クラシックの未来のためにも・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
小泉進次郎氏の主張については同感です。本当に鋭いですよね。

>「王様は裸だよ!」と叫べる元気のある若手の台頭が、どの世界でも必要ですね。
おっしゃるとおり!

「原子力村」、「クラシック村」・・・、いずれにせよ「他」を受容できない「村」が多いですよね。「自分を含め、もっと多様性を認めなきゃいけません」という言葉、痛いです。
本日もありがとうございます。

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