アバド指揮ウィーン国立歌劇場のベルク歌劇「ヴォツェック」(1987.6Live)を観て思ふ

いわば資本主義社会、科学万能主義への反発と警告か。
金満に対する自己犠牲の慈愛。
初演から100年近くを経た現代社会にこそゲオルク・ビュヒナーの思想、あるいはアルバン・ベルクの音楽は、もっと知られるべきものなのかもしれぬ。
ヴォツェックが犯した罪はある意味必要悪ではなかろうか。
「ヴォツェック」は、見方を変えれば、狂人、また愚者であるヴォツェックの覚醒の物語であるとも言えまいか。

知ったかぶりの大尉は第1幕第1場でこう語る。

しかしだ、永遠は永久に、だけではなく、亦一瞬でもあるのだ、おお、そうさ、一瞬間なのだ!

確かに。そして、この言葉に即座に同意するヴォツェックの心眼。
第1場最後の、呼吸の浅いヴォツェックに示す大尉の言葉の重みに僕は快哉を叫ぶ。

もう、行け、だが、亦、そう慌てるなよ!
道をゆっくり下りて行くのだ、真ん中を通ってな、
ゆっくり行くのだぞ、ちゃんと、ゆっくりとな!

大尉は先に光明を照らす師であろう。
過去の音楽形式の宝石箱とも言える「ヴォツェック」でのクラウディオ・アバドの指揮は一部の隙なく的確で、しかも、彼ならではの色気を保つ。場面転換毎に現れる管弦楽のニュアンス豊かな響き、時に不気味、時に安寧な、また時に雄渾な美しさ。そして何より、グルントヘーバー演じるヴォツェックの巧さ!!仕草も恐ろしいばかりの形相も言うことなし。

第3場「行進曲」での、ベーレンス扮するマリーとヴォツェックの鬼気迫る対話と、「子守唄」での優しくも憂鬱な歌の妙。次のように語るヴォツェックは、やっぱり内なる神を得たのだと思う。

しっ、静かに!判ったんだ!
空に形が浮かびあがった、それから、すべてが真っ赤になって!
俺は色んなことの真相を発見したんだ!

ましてや第4場のヴォツェックの言葉は悟りの境地。

それでも、博士様、自然の摂理には勝てないのであります!

権威なるものは、すべて人間の盲信であり、高邁な心から生れた幻想。医者や大尉という権力に真っ向から抗うヴォツェックの方法は、極めてゲーム的なものだが、言葉の一つ一つは真に迫るものだ。

・ベルク:歌劇「ヴォツェック」
フランツ・グルントヘーバー(ヴォツェック、バリトン)
ヴァルター・ラファイナー(鼓手長、テノール)
フィリップ・ラングリッジ(アンドレス、テノール)
ハインツ・ツェドニク(大尉、テノール)
オーゲ・ハウクランド(医者、バス)
アルフレート・シュラメック(第1の徒弟職人、バス)
アレクサンダー・マリー(第2の徒弟職人、バリトン)
ペーター・イエロジッツ(愚者、テノール)
ヒルデガルト・ベーレンス(マリー、ソプラノ)
アンナ・ゴンダ(マルグレート、アルト)
ヴィクトリア・レーナー(マリーの子供)
ヴェルナー・カーメニク(兵士、テノール)
ウィーン少年合唱団
クラウディオ・アバド指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団(1987.6Live)

白眉は第2幕。第1場最後のマリーの心情告白と、その後のヴォツェックが殺人に至る深層の吐露は現代社会に係る闇とまさに相似形。

あたしはやっぱり悪い人間なのよ。
自分を殺したくなるわ。
ああ!なんていう世の中なの!
なにもかも悪魔に呉れちまえばいい。
男も、女も、子供も!

なるほど、三島由紀夫が最後の「天人五衰」で描いた本多(安永)透の内面を借りての、作家自身の思惑とも錯綜する。これこそ僕たち20世紀末に生きる者が抱えた諸問題の根源だろうか・・・。

僕は雪崩れる。
雪が僕の危険な断面を、あまりに穏和なふりをして覆っているのに、いや気がさすから。
しかし僕は自己破壊とも破滅とも縁がない。僕がこの身から振い落し、家を壊し、人を傷つけ、人々に地獄の叫喚を上げさせるその雪崩は、ただ冬空がかるがると僕の上へ齎らしたもの、僕の本質とは何の関わりもないものだからだ。しかし雪崩の瞬間に、雪の優しさと、僕の断崖の苛烈さとが入れかわる。災いを与えるのは、雪であって、僕ではない。やさしさであって、苛烈さではない。
三島由紀夫著「天人五衰―豊饒の海・第四巻」(新潮文庫)P223-224

そして、終幕の殺人シーンの、返り血を浴びるヴォツェックのあまりのリアルさに衝撃、卒倒必至。この恐怖の場面に奏される音楽の、頭脳的冷たさにアルバン・ベルクの天才を思う。
全編を通じて流れる「田園」交響曲の主題の断片が、僕たちに自然に還ることを仄めかすかのように聴こえる。
何だか僕には、ヴォツェックこそが救世主なのではないかと思えてならない。
壮年期のアバドの指揮は全編通じて引き締まり、隅から隅まで明晰で素晴らしい。

※上記太字はサイト「オペラ対訳プロジェクト」から引用。

 

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