台湾は日月潭のホテル・ラルーでバレンボイムのベートーヴェンを聴いた。
何となく手持無沙汰で、ホテルの図書館で手にしたのが偶々それだったのだ。
バレンボイムのベートーヴェンは、明らかにフルトヴェングラーの模倣だった。
特に、シュターツカペレ・ベルリンとのものは、外面や方法は完全にフルトヴェングラーの方法に則っていたものだから、初めて聴いた当時感動するかと思いきやそうでもなかった。
目に見えるものは仮であり、目に見えないものが真であるということがわかった今、やっぱり演奏の良し悪しは、その心にあると痛感する。
果して耳にしたウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラとの交響曲第7番(ブエノスアイレスでのライヴ録音)は素晴らしかった。
トリプル・コンチェルトへの空想ムターとマは1979年にカラヤン指揮ベルリン・フィルと三重協奏曲を録音しているが、40余年の時を経てのライヴ録音は独奏者それぞれが主導権を握る、丁々発止の演奏が聴きどころ。ベートーヴェンの凡作といわれる協奏曲がこれでもかと言わんばかりのパッションとエネルギーを湛え、聴衆の前に出現する様に心が動く。
そして、アルゼンチンはブエノスアイレスでの第7交響曲の、いかにもフルトヴェングラー風の味付けのスタイルは、一層昇華され、バレンボイムの音楽として僕たちの眼前に姿を現わしている。第1楽章序奏ポコ・ソステヌート冒頭から意図的なアインザッツのずれはフルトヴェングラーの方法を間違いなく採用しているだろうが、単なるモデリングに終わっていない点が素敵だ。
急がず、慌てず、音楽は意味をもって進行する。
第2楽章アレグレットの明朗な憂いに感激し、第3楽章スケルツォではフルトヴェングラーのそれを髣髴とさせ、感動を喚起する。より素晴らしいのは終楽章アレグロ・コン・ブリオの歓喜。