
立ち居振る舞いはマルタ・アルゲリッチを髣髴とさせる。
もっと獰猛な(?)、激しい音楽を再生するのかと思いきやとても優しく柔和な音楽が流れる。冒頭、鍵盤をなでるように響く微かな音からクレッシェンドする鐘の模倣から早惹きつけられる。病から癒えた作曲家が満を持して発表した傑作は浪漫の極みを獲得するものだが、ユジャ・ワンの独奏はもちろんのこと、例によって爪楊枝のような(?)指揮棒を器用に扱って両手で音楽を紡ぐワレリー・ゲルギエフの好サポートに僕は感動を覚える。何よりクライマックスに向けての独奏者の集中力と脱力の妙。ほとんど音楽そのものと一体になり、ピアニストの存在を忘れてしまうほどの没入加減に、彼女の恐るべき、華麗なるテクニックはもとよりその解釈、表現の幅広さにも舌を巻く。
第2楽章アダージョ・ソステヌートの恍惚、そして、弾ける終楽章アレグロ・スケルツァンドの明るい愁いに、未来への希望をつなぐラフマニノフの大志の蠢きを僕は思う。まるで作曲家が憑依しているかのような演奏だ。
フランスはパリのルイ・ヴィトン財団オーディトリアムでのライヴ。
思い入れたっぷりに奏されるヴォカリーズの官能。そして、ニコライ・カプースチンの8つの演奏会用練習曲から第3曲トッカータの短くも悲しく(?)激情的な音楽にユジャの音楽をする喜びを知る。それにしてもホロヴィッツ編によるカルメン変奏曲のエキゾチックさは、もちろん本家本元の演奏以上。彼女は存在そのものが音楽的だ。