振り返り

1966_concerts_horowitz.jpgともかく日々「振り返り」が大事だとつくづく思う。「自己成長」は誰にとっても永遠のテーマだと思うが、そのヒントとなるのが「自己受容」。最近、誰に対しても明確にお伝えすることは「あなたは今のあなたのままでいいよ」ということ。そのために就寝前に一日を振り返ることと、朝起き抜けにその瞬間感じたことをノートに書きなぐるという作業を2ヶ月間続けてみることをおススメしている。

それによって、無意識の、気づかない深層心理につながって新たな自己発見があるかもしれない。そして、「自分ってこうなんだ!」とはっきり自覚できるようになったら、それをそのまま受け容れてしまえばいいのである。

ブログを書き続けるという作業も「振り返り」の役目を果たしている。理性を使って整理して、文字化していくという作業は大変だが、重要だ。一方で、感情の赴くままに自己を解放することも大切(本当は「誰か相手の胸を借りる」のがベストだが、日常的にそれは無理。であるなら、寝ぼけ眼のまま一方的にノートに向かって「感情」をぶちまけてみることでいいんじゃないか)。今は封印しているが、20年近く「自身を解放」し、「等身大の自分と他者に出逢い、受容する」ことを目的とするセミナーを提供してきた。たくさんの人と個別に話をするにつけ、そういうものを皆必要としていることがよくわかる。そろそろその封印を解くべき時期が近づいているのだろうか。

僕がこのブログ(旧ブログ「アレグロ・コン・ブリオ」)を書き始めたのが2007年5月8日だから、2年と2ヶ月以上が経過したことになる。時折、過去のブログ記事を読み返すが、やっぱり新発見があり、面白い。ちなみに、初投稿の記事で採り上げたのが、ホロヴィッツのかの有名な1965年ヒストリック・リターンの未編集バージョンCD。せっかくなので、今日は「振り返り」にちなんで、その翌年1966年のコンサートを収録した音盤を聴く。

1966年カーネギー・ホール・コンサート
ウラディーミル・ホロヴィッツ

1曲目のモーツァルトのK.331は、実は僕が最も好きな演奏である。確か25年くらい前に初めてこの演奏を聴いて以降、僕の中でこれを凌駕する演奏は出ていない。「実は」というのは、僕の脳みそに刷り込まれているモーツァルトのソナタの原型はバックハウスの演奏であり、(今でも彼の表現をものさしにして聴いてしまう癖が抜けないのだが)バックハウスの演奏が最高だと思い込んでいた時期が随分長かったから。そして、2曲目のショパン「幻想ポロネーズ」も同じくホロヴィッツの右に出る者はいない。いや、そういう言い方は語弊がある。やっぱり、刷り込まれている「幻想」の原型がこの演奏であり(昔アナログ・レコードで初めて聴いたのは、ショパンの楽曲を集めたアルバムでだったが)、今度はホロヴィッツ以上だと思える演奏に出会えていないのである。何が僕にそう思わせるのか?そうこの2曲はいつ聴いても新鮮なのだ。今、ここ、その瞬間に生み出されているという感が凄まじい。その後に続く、ショパン、スクリャービン、ハイドン、シューマン、ドビュッシー、そしてリストとどれをとってもライブでのホロヴィッツの真骨頂が刻み込まれている。

※僕が所有している音盤は、The Complete Masterworks Recording 1962-1973(輸入盤)シリーズの第3巻。上記国内盤と収録曲や収録順に異同がある。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>朝起き抜けにその瞬間感じたことをノートに書きなぐるという作業を2ヶ月間続けてみることをおススメしている。
私の場合、何だかコメントを書くことがそうした作業になってしまったようです。岡本さんには感謝の極みです。
それにしても70年代以前のホロヴィッツの録音は、いつ聴いても妖気や魔性を感じるほどゾクゾクします。実演を聴いたら「さぞかし」でしょうね!
ピアニストにしても、弦楽器奏者にしても、オーケストラにしても、指揮者さえも、年々技術の向上と共に、演奏から「魔性の魅力」が失われていくのは、規格品から外れた個性をどんどん削ぎ落としていく時代の要求なのでしょうね。
現在、地球上では年間40,000種もの生物が絶滅していると言われていますが、生物と同様クラシックの演奏家も、種の多様性が失われつつありますね。
宅地開発が進み、どこも夜が街の照明で明るくなり、私の子供時代にはまだあった、魔物や地霊や妖気を感じる場所も少なくなりました。

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岡本 浩和

>雅之様
>私の場合、何だかコメントを書くことがそうした作業になってしまったようです。
こちらこそ毎日ありがとうございます。まさに日々の振り返りと起き抜けの書きなぐりの両方を満たすブログになりました。
>生物と同様クラシックの演奏家も、種の多様性が失われつつありますね。
おっしゃるとおりですね。残念でなりません。
>宅地開発が進み、どこも夜が街の照明で明るくなり、私の子供時代にはまだあった、魔物や地霊や妖気を感じる場所も少なくなりました。
そうですよね、深夜が照明で明るいというのもよく考えたら不自然なものです。僕の実家は山奥なので、子どもの頃今時分の季節になると川沿いで蛍の群れをいやというほど見ることができました。景色そのものはそれほどの変化はないようにも思いますが、今でも蛍って見れるんだろうか?と思ってしまいます。

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アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » なんとも慈愛に満ちた響き・・・

[…] ジュリアード弦楽四重奏団が1968年に録音した弦楽のための小品集がすごく良い。 同じニューヨークでは、ルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンドが前衛アルバム”White Light/White Heat”をリリースしたばかりで、これら全くジャンルの違う音楽を並べて聴き比べるだけでも、60年代後半アメリカの様々な側面がほんの少し垣間見られるようで興味深い。混沌とした社会背景を有しながら、でもそこからは希望に満ち溢れた夢が飛び出す。ヴェルヴェッツが目指したものもそういうところにあろうし、当時ホロヴィッツがカーネギー・ホールで開催していた復帰リサイタルなどにも輝かしいばかりの希望と夢に満ちているように僕には感じられる。 […]

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