カラヤン指揮ベルリン・フィルの「新ウィーン楽派管弦楽曲集」(1972-74録音)を聴いて思ふ

異端というものは、時機が到来すればおそらく異端ではなくなるのだろう。
アルノルト・シェーンベルクが唱えた十二音技法というのは、平均律のオクターヴのすべての音を平等に扱うというもので、その意味ではその登場は、争い絶えぬ20世紀の必然であったのだと僕は思う。アルバン・ベルクの音楽も、またアントン・ヴェーベルンの音楽も、秘めた妖艶さに包まれていながら、どこか理智、頭脳的な客観性に長けているのはそういう理由からなのだろうと思う。

かつての前衛音楽が1世紀近くを経てようやく受け容れられるのは、そう、うまく言い表せないが、中性的だからだろうか。

それで男子の資格ない云うたら、男子云うもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現れた恰好ばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、深草の元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえた云うやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そない云うたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿ぁてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性や云うこと分かってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんま云うたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやさかい問題やあれへん。・・・
谷崎潤一郎著「卍(まんじ)」(新潮文庫)P152

まさにギリシャ彫刻的中性美の極致である、カラヤンの「新ウィーン楽派管弦楽曲集」に収められた音楽たち。研ぎ澄まされた、オーケストラの人間業とは信じられないくらいの機能性と、磨き抜かれた音の透明感。それでいて異様な厚みを感じさせる魔法。かつてカラヤンの演奏がどうしてもてはやされたのか、その理由がようやくわかったような気がする。

新ウィーン楽派管弦楽曲集
シェーンベルク:
・交響詩「ペレアスとメリザンド」作品5(1902-03)(1974.1録音)
・管弦楽のための変奏曲作品31(1926/28)(1974.1&2録音)
・浄められた夜作品4(1899)(1943年弦楽合奏版)(1973.12録音)
ベルク:
・管弦楽のための3つの小品作品6(1914-15)(1972.12録音)
・抒情組曲からの3つの楽章(1928)(1973.9&11録音)
ヴェーベルン:
・パッサカリア作品1(1908)(1974.2録音)
・弦楽四重奏のための5つの楽章 作品5(弦楽合奏版)(1909)(1973.11録音)
・管弦楽のための6つの小品作品6(1909)(1973.3録音)
・交響曲作品21(1927-28)(1974.2録音)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

師シェーンベルクより一層中性的、否、ある意味無機的になるのが(あくまで僕の独断的見解)、アルバン・ベルクの音楽。俗物であった作曲者が、自身の創造物を通して聖なるものと一体となるには、血肉を捨て、鉱物にならざるを得なかったのかも。バッハのような堅牢さと知性が素晴らしい。
「抒情組曲」からの楽章の色香の妙。ここでのカラヤンは思い入れたっぷりで、管弦楽を縦横にコントロールし、聴く者にベルクの音楽の美しさを上手に示す。

また、アントン・ヴェーベルンの切り詰められた音塊の魔性。記念すべき作品番号1の「パッサカリア」の妖しげな響きは一度はまれば病みつきになるほどの病的なうねりを持つ。金管の咆哮など、これこそカラヤンならではの音楽。そして、わずか10分強の交響曲の鋭利な刃物のような切れ味に卒倒。これら、いかにも都会的センスの洗練がカラヤンの方法なのだろうが、そこに柔和な僻地的訛りが感じとれるのだから面白い。僕の気のせいだろうけれど・・・。

光子さんの云いぐさ真似シするのんやないけど、同性の愛と異性の愛とはまるきりたちが違う思たらなんにも嫉妬することあれへん。ぜんたいあんな綺麗な人たった一人で愛そ云うのんが間違うてる。五人も十人も崇拝する人あったかて当り前やのんに、ふたりで占領する云うのん勿体ない。
~同上書P132-133

異端というものは、時機が到来すれば異端ではなくなることは間違いない。

 

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5 COMMENTS

雅之

>異端というものは、時機が到来すればおそらく異端ではなくなるのだろう。

>師シェーンベルクより一層中性的、否、ある意味無機的になるのが(あくまで僕の独断的見解)、アルバン・ベルクの音楽。俗物であった作曲者が、自身の創造物を通して聖なるものと一体となるには、血肉を捨て、鉱物にならざるを得なかったのかも。

そうなると、チェスや将棋や囲碁で、世界のトップ棋士が歯が立たないのを見るにつけ、やがてAIが最高の作曲家や演奏家になるのも時間の問題かと思います。かつてのカラヤン同様、「偉大なる偽物」とか呼ばれながら人間業を超えるのは、もう確実でしょう。「柔和な僻地的訛り」でさえ十分表出可能でしょう。

https://www.orient-doll.com/

>異端というものは、時機が到来すれば異端ではなくなることは間違いない。

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雅之

・・・・・・これら優秀なニセモノは不思議なことに生きているホンモノにはないような魂を持ち始めるようだ。この会社ではドールは名前で呼ばれ、お勤めを終えたドールのために「里帰り」「人形供養」をしてあげたり、神棚に祀ったりもしているという。・・・・・・アツコ・バルー

http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2017/0520_4199.php

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岡本 浩和

>雅之様

今の人形ってこんなに進化してるんですか!?
凄そうですね・・・、これは!!(笑)

今回の記事からここに飛ぶ雅之さんの発想の拡がりの凄さにも感動しております。
さすが!!(笑)

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雅之

関連した「おまけコメント」です。

・・・・・・音楽仲間の一人が、「レコードって、ダッチワイフみたいなものだよ」と私にいったことがある。とっさに返答に窮したのは、こっちにダッチワイフ使用の経験がないからである。南極探検隊の裏話めくが、よく考えてみると、レコードにはそんな要素があるかもしれない。生演奏絶対論者は、多かれ少なかれ〝レコード・ダッチワイフ論者〟だろう。十年前にアンチ・レコード論者の一人だった私は、若気の至りで、生意気なレコード批判論を書きまくっていた。そんな駄文の一つを読んで、九州の奥地のお医者様が、投書をくれた。「生演奏に絶対触れることのできない所で日夜多忙の中に過ごしている私のような洋楽好きは、一体どうしたらいいんですか・・・・・・」これには参った。以来、私は言葉をつつしむとともに、レコードに対する考え方をがらりと変えたのだった。

考えてみれば、われわれの国でレコードがよく売れるということの裏には、いい生音楽がもう一つ聴きにくい日本のお国柄もあるかも知れない。また、オーディオ好きという面にも国民性が現われているのかも知れない。グレン・グールドの《ゴールトベルク変奏曲》を久しぶりに聴きながら、新鮮な音楽の喜びにひたり、(こういうのもダッチワイフというのかな。ならば、本物よりましだということになるぞ)などと不思議なことを考える。吉田秀和さんのすすめでこのレコードを聴き初めた頃とは私もすっかり変わった。あの頃の一本気な私の方がよかった、という人もたくさんいるが、私は、今の方が、少なくとも本物の音楽好きになっていると思っている。それには、この十年間に聴いたたくさんのレコードが、多分に影響しているかも知れない。・・・・・・

「ON BOOKS(22)ピアノ名曲名盤100」 諸井 誠 (著) ( 音楽之友社 昭和52年12月10日 第一刷発行)『レコードと私』P10~11

https://www.amazon.co.jp/BOOKS-22-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%90%8D%E6%9B%B2%E5%90%8D%E7%9B%A4100-%E8%AB%B8%E4%BA%95-%E8%AA%A0/dp/4276350220/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1497158515&sr=1-1&keywords=%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%90%8D%E6%9B%B2%E5%90%8D%E7%9B%A4100%E3%80%8D+%E8%AB%B8%E4%BA%95+%E8%AA%A0

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岡本 浩和

>雅之様

さすが諸井さんですね。とても感動的なエピソードです。
人間は誰しも自分の立場からしかものを考えられないということでしょう。
すべてに存在価値はあります。
ありがとうございます。

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