シヴィル クレンペラー指揮フィルハーモニア管 モーツァルト ホルン協奏曲第2番変ホ長調K.417ほか(1960.5録音)

かつてホルン協奏曲第1番ニ長調K.412を聴いて、何て美しい曲なんだと嘆息した僕がいた。ウィーンでの活動を始めたばかりのヴォルフガングによる筆だとばかり思っていたら、最後の年に書かれた第1楽章だけの未完の作だという説が多勢になり、経済的苦境にあったあの年に、彼がこんな明朗で快活な音楽を書いたことに二度吃驚したことを思い出す。

〈古き良き〉時代は去った。モーツァルトのなかでそれは歌いつくされた。—彼のロココ風趣がなおわれわれに語りかけ、彼の〈上品な社交〉が、彼のやさしい熱狂が、シナ風のものや唐草模様のものにたいする彼の子供らしい悦びが、彼の心ばえの優雅さが、粋なもの・恋いしれたもの・踊るもの・至福の涙にくれるものにたいする彼の憧れが、南方への彼の信仰が、われわれの心になお残っている何ものかに訴えることができるというのは、われわれにとって何という幸福なことであろうか! ああ、いつの日かこれとても過ぎ去るのであろう!
「善悪の彼岸」第8章『民族と祖国』
信太正三訳「ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜」(ちくま学芸文庫)P272

ニーチェの言い分には錯誤があろう。
時代の変遷や変化に抗い、決して変わらないのがベートーヴェンの音楽であり、またモーツァルトの音楽なんだと僕は信じる。
それは、時代の空気や自身の身の上を超えたところに彼らの芸術があったからだ。
悟性でとらえた、渾身の、というより空前絶後、後にも先にも現れないのがモーツァルトであり、ベートーヴェンなのである。

アラン・シヴィルがクレンペラーの指揮で録れたモーツァルトの協奏曲の普遍的美しさ。

モーツァルト:
・ホルン協奏曲第1番ニ長調K.412
・ホルン協奏曲第2番変ホ長調K.417
・ホルン協奏曲第3番変ホ長調K.447
・ホルン協奏曲第4番変ホ長調K.495
アラン・シヴィル(ホルン)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1960.5.11, 12, 18 &19録音)

クレンペラーの、モーツァルトのスタイルとはかけ離れた、近代オーケストラのぶ厚いオーケストラ様式が、シヴィルの古色蒼然とした独奏ホルンを引き立てる。

第2番変ホ長調K.417は、高校生のとき、FM放送で聴いて以来虜になった音楽だ。独奏はヘルマン・バウマンだったことは覚えているが、伴奏が誰だったか、どこのオーケストラだったか、記憶の彼方。何にせよエアチェックしたテープを繰り返し聴いたことは確かだ。

アラン・シヴィル&マリナーのモーツァルト協奏曲K.495(1971.9録音)ほかを聴いて思ふ アラン・シヴィル&マリナーのモーツァルト協奏曲K.495(1971.9録音)ほかを聴いて思ふ メンタルヘルス・ケアにモーツァルトを メンタルヘルス・ケアにモーツァルトを

その後に出会ったデニス・ブラウンも、アラン・シヴィルも、そのときの演奏に比較して何かが物足りないと思ったものだが、それは単なる刷り込みだったのだろうと今は思う。

還暦を超えた今の僕には、シヴィルとクレンペラーによる本盤こそ本命。
実に素晴らしい録音を残してくれたものだと感謝するばかり。

ヘンデルの音楽のうちではじめて、ルターとその血縁の者たちの魂からうみだされた最も優れたもの、宗教改革に偉大さという特徴をあたえたユダヤ的英雄的特徴が響きはじめたが—これは旧約聖書が音楽となったものであって、新約聖書ではない。モーツァルトがはじめてルイ14世の時代およびラシーヌとクロード・ロランの芸術に対して鳴り響く黄金で差額をもどした。ベートーヴェンとロッシーニの音楽のうちではじめて、18世紀が、耽溺の、破れた理想の、はかない幸福の世紀がおのれを歌いおえた。あらゆる独創的な音楽は、瀕死の白鳥のうたう歌である。
(「ニーチェ対ヴァーグナー」から『未来のない音楽』)
原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏/反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P360-361

フリードリヒ・ニーチェの中では、ベートーヴェンとロッシーニで音楽史は終わっているようだが、モーツァルトを含め実際は永遠普遍。あまりに厭世的過ぎて、モーツァルトの楽天を、ベートーヴェンの皆大歓喜を真に信じ切ることができなかったのかもしれない。

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