相方が知人から第10回ショパン国際コンクールの記録映像(30数巻あるうちの6巻)を借りてきたので、その一部を観た。この時、つまり1980年のコンクールは、例のイーヴォ・ポゴレリッチに関するスキャンダルで有名になった回だが、実際に当時のイーヴォの演奏をいくつも観てみて、最近の彼はよりエキセントリックかつデフォルメされた演奏を披瀝するようになったものの、この高名なコンクールで物議を醸しただけあり、ミスタッチは散見されるものの音楽性満点で、こんなにも表情豊かなピアノ演奏は滅多に聴けないものだとあらためて痛感した。それも、当時の決してクリアとはいえない映像、音響記録をもってしても、彼の創り出す音楽の特異性(その呼吸の深さ!)、天才が垣間見られるわけだから、終了後の聴衆の拍手喝采の異様さを見るまでもなく審査の不公平さで激怒して審査員を降板したアルゲリッチの想いが身に染みてわかるように思った。
一方、第10回の覇者であるダン・タイ・ソンの弾く第2協奏曲の映像もしっかりと記録されており、淀みのないタッチと、珠を転がすような美しい指裁き、そしてミスのない演奏はもちろん完璧なのだが、意外性も何もなく、感心はするものの、また聴きたいと思うような演奏であるとは僕には感じられないので、コンクールの非情さというか限界というか、あり方に対する疑問が音楽の素人ながらも沸々と湧いてきて、今日はそのことについて書いてみたくなった。
ポゴレリッチのような型破りで衝撃的な新しい解釈は、アルゲリッチの「彼は天才よ!」というひと言が示すように、飛び切りの絶賛を浴びることもあれば、実際には落選したという事実からもわかるように、時に旧態依然とした学者たちからは真っ向から否定される危うさをもつ。あまりに破天荒なポゴレリッチのショパン解釈を前にして、保守派にとってみれば「とんでもない!」若者と映ったのだろう。確かに伝統を守り続けることは大切なことで、ショパンと名のつくコンクールならば、ショパンらしさ、その決められた枠の中でいかに美しいショパンを聴かせるかが重要な判断基準なのだろう。
しかし、このコンクールから30年近くを経た今、実際に何度もポゴレリッチの実演に接した経験から言うと、やはり当時のアルゲリッチ、あるいはその会場に居合わせ拍手喝采を彼に送った、そしてポゴレリッチの優勝を信じて疑わなかった何人もの聴衆こそ、ある意味正しかったのだと僕には思える。彼が残したいくつもの音盤評をひもといてみても、そのどれもが高い評価を受けており、一般にも彼の天才が認められているということからもそれは明らかだ。
ただ、技術的に優れていれば良いのではないはず。真の美というものは一定のルールの中で破るか破らないかの紙一重のリスクの中に生じるもので、一触即発の脆さというか危うさの中に起こるものだと僕は信ずる。
人間でもそう。何でもしっかりきっちりとこなし、できる人はありがたがられるし、評価もされる。安定していて安心できるかもしれないが、逆の見方をすれば、いつも同じような姿勢であったなら面白みにかけるともいえるのだ。時には誰もやってのけられないことをやってのけられる人間であるからこそ、そこには新しい何かを発見し、それによって新たな別の境地に達することができるのだとも思うのである。
いずれにせよ、この件は、論じ出すと底なし沼のように終わりがない。いずれまた再考し、書いてみたいと思う。
ところで、前述のDVDではショパンのスケルツォ第3番嬰ハ短調作品39が収録されている。まるでヴェルヴェットのような肌触りの弱音と、重戦車のような激しい打鍵から繰り出される強音というびっくりするほどメリハリの効いた音楽作り(それでいて決してバランスを失わない美しい演奏)。わずか22歳のポゴレリッチのショパン演奏は、この時点ですでに完成していたともいえる。コンクールから15年後に録音したポゴレリッチの今のところの最新録音であるショパンの「スケルツォ全集」(師であり、そして愛する妻でもあったアリスとの最後の共同作業となった)は涙なくして聴けない1枚だが、それ以上にこれでもかというほどの切なさに溢れた音盤がブラームス集。
ブラームス:ピアノ曲集
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)
作品118-2、あるいは作品117-1。あまりに哀しくて、そしてあまりに美しくて言葉にならない・・・。
⇒旧ブログへ