
「ドン・ジョヴァンニ」をこよなく愛したキェルケゴールの、まさにその歌劇を主題にした著作をひもとくと、多様な論説の中に「なるほど」と膝を打つ言葉が見つかる。
(残念ながら邦訳がいまひとつなので非常に日本語がわかりにくいのが難点だが)
「序論—感性的=エロス的なものとしての音楽」の冒頭は次のようだ。
この研究が主として課題にしたことは、音楽的=エロス的なものの意味を明らかにし、さらにこの目的のために、すべて直接的=エロス的であるという点で共通性をもち、同時にすべて本質的に音楽的であるという点でも一致する、さまざまな諸段階を指摘することである。これについて私が言いうることは、ひたすらモーツァルトだけに負うのである。それゆえだれかたいへん礼儀正しい人があって、私が述べようと思っていることのなかに正しさを認めてくれるものの、ただそれがほんとうにモーツァルトの音楽のなかにあるのか、それともむしろ私がモーツァルトの音楽のなかにそれをもち込んだのではないか、という点ではいささか疑うとすれば、私はその人に、私が述べうるわずかのことばかりでなく、それ以上の無限に多くのことがモーツァルトの音楽にあるのだ、と断言することができる。そればかりか私は、この考えこそモーツァルトの音楽に関する2,3のことを説明する試みをあえてする勇気を私に与えたのである、と断言することができる。
~ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P32-33
続く熱い言葉から、キェルケゴールは若き日よりモーツァルトの中に、熱狂を見出し、感嘆し、魂の奥底から神秘を堪能してきたことが読み取れる。
(彼にとってモーツァルトは絶対だった)
ヨッフム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管のモーツァルト「ジュピター」ほか(1960.12録音)を聴いて思ふ
僕の原点たる「ジュピター」交響曲。
FM放送で聴いたオイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ盤を皮切りに、以後、様々音盤を漁り、また友人から借り、いろいろ聴いた。時は、1981年頃。個人的にはヨッフム盤が今もって一推し(後にリリースされたカール・ベーム追悼の、ウィーン・フィル定期の名演奏が最高!)だが、もちろん幾種かあるブルーノ・ワルター盤もそれぞれ好んで聴いてきた。
本人にはその気はなかったろうが、これにて打ち止めという風趣を醸す、モーツァルト最後の交響曲は、完璧なフォルムを有しており、年齢を重ねた今だからこそまた心に染みる新たな感動体験を喚起する音楽だ。
もはや言葉にするものでもない。
ただただこの音楽の内側に身を(心も、魂も)置くことだ。そして、キェルケゴールが「ドン・ジョヴァンニ」に見たエロスが、ここにもあることを感じよう。
・モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
オイゲン・ヨッフム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.9.20Live)
ヨッフムは、ベーム追悼のために「フリーメイソンのための葬送音楽」K.477を用意した。
そして、それによって悲しみを打ち消し、カール・ベームが得意としたモーツァルトを、それも堂々たる威容の「ジュピター」交響曲を披露した(それでも第2楽章アンダンテ・カンタービレ)の慟哭は胸に迫る)。
まもなく立春、そして旧正月節。
本格的に丙午年に入る。
心して行わん。
