アントニー・ルーリーほかのダウランド「リュート曲全集」を聴いて思ふ

dowland_complete_lute_music_rooley147音楽というものは、そもそも「癒し」であらねばならぬ。
かつて日本の戦国時代に、千利休を祖として一期一会の精神を体現する「茶の湯」が生れた。信長や秀吉に仕えるも、その秀吉によって追放され、挙句は賜死に至った利休の最期については不明な点も多いのだが、芸術というものを一般大衆のレベルにまで落とし込もうとした意味においてこの人の意義は大きい。

たとえばにじり口というものがある。それは現実の日常生活では無用な存在であるが、それが侘び茶の湯の形成上、必須のものとして出現したのは、外界=日常性をその意外性によって断ち切ることにより、茶室という虚構の世界を際立たせるためであった。茶室を三畳、二畳、一畳半というふうに極端に小さくしたのも、まさしく日常性の拒否にほかならない。

しかし考えてみるに、虚構ということでは他のジャンルの芸術でも同じことだろう。というより芸術とはそもそも虚構の営為であり、虚構のなかに真実を求めることであった。
村井康彦著「千利休」(講談社学術文庫)P331

「虚構のなかに真実を求めること」という件に頷いた。芸術のすべてが時間と空間を超える「親和」の上に成り立つものであり、そこにこそ真実があることを村井氏は示唆する。
ちなみに、利休の死に至る推理の箇所には次のようにある。

さて以上のことを勘案するに、罪状の第一が、大徳寺の山門におのれの木像を掲げるといういわば不遜僭上の所業であったことは明らかである。利休の山門増築は、既述したように、天正17年末には完成していたのであるからいささか奇異な感もするが、棟札とちがい木像の造作は多少の日時を要したであろうから、これが山門上に置かれたのは天正18年になってからだったのかもしれない。
~同上書P276

こうして利休はその日―2月28日を迎えたのである。この日は利休の怨みがこめられているかのように、大雨が降り、ときに雷鳴―春雷というのであろう―がとどろき、大霰が降るという大荒れの天気であった。
~同上書P293

勝手な空想をするに、利休は戦争という時代の風潮に抗うかのように、人間存在の根本を「茶の湯」に投影し、いわば「調和=ひとつになること、すなわち平和」を希求するがあまりそれが度を越し、時の支配者の不興を買ったのではなかったか。
絶対君主が君臨していた中世の時代というのは、どこの国、地域においても同じようなことが起こっているものだ。

1591年に亡くなった千利休と同時代の英国の音楽家、ジョン・ダウランドを聴いた。

・ダウランド:リュート曲全集(1977.9.録音)
アントニー・ベイルズ(リュート)
ヤーコブ・リンドベルイ(リュート)
クリストファー・ウィルソン(リュート)
ナイジェル・ノース(リュート)
アントニー・ルーリー(リュート)

一挺の撥弦楽器が織り成す音楽の崇高な調べ。ルーリーによると、ダウランドの音楽の3つの特長は、「創造的才能と想像力の自由な湧出」、「作品の統一感、行き届いた構成」、そして「稀代のメロディ・メイカー」ということだが、現代のポピュラー・アーティストにも負けずとも劣らぬ普遍的な美に究極の「癒し」を垣間見る。
何とも可憐で静謐なこれらの作品に、音楽が時間と空間を超え、人々の心に迫り、人間の魂を見事に洗い浄めるものだという実感を得る。

すべては即興であり、一期一会。
当時の人々の息遣いまでもが刻み込まれるよう。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

千利休の死には、石田三成が絡んでいました。三成は豊臣秀吉の側室となった淀殿と結び、勢力を拡大していきました。それが豊臣政権を滅ぼすことになりました。秀吉の弟、秀長は黒田如水に三成の専横を抑えるよう言い残し、この世を去りました。三成は、黒田如水すらおとしいれ、自らのけん制をる湾としたものの、関ヶ原の戦いで黒田如水、長政親子に手痛いしっぺ返しを食らいました。
石田三成は関ヶ原の戦いで徳川家康に負けたというより、黒田親子に負けたといえますね。

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