
よくよく聴くと、多少の遊びをしているのが、ドラティのベートーヴェン。
ほんのわずか、最後に大見得を切る、そんな印象なのである。
交響曲第2番も交響曲第7番も同じく素晴らしい(と思えるようになった)。
自然体の中にある、ほんの少しの遊び心。
果して指揮者が意識していたのかどうかはわからない。もちろん恣意性は感じられないから、あくまで即興的にそうしたのだろうと思う。
ドラティ指揮ロイヤル・フィルのベートーヴェン交響曲第5番&第6番を聴いて思ふ
展覧会で眼を皿にして絵をばらばらに熟視している人をみると—専門の画家をふくめていうのだが—私はつい、こう忠告したくなる。「見ないで聴いてはどうですか。少しはなれた方がよくきこえるのだがな」私の考えではモダン・アートがその先駆者たちが発見してきたさまざまな象徴の体系を言語としてうけとったことが、どうもまちがいであると思う。げんに造形言語という言葉が流行っているけれども、このように倒錯的な危険な言葉はない。もし比喩的な意味で二つの概念をむすぶなら、造形音楽という方が、はるかに有意味で、それに何よりたのしいと思う。
宇佐見英治「絵を聴く」
~辻邦生編「絵と音の対話」(音楽之友社)P20
宇佐見さんは、このエッセイの中で「展覧会は聴くべきもので音楽会は見るべきものだ」と初心の鑑賞者に言うのだと言っておられる。それは、真理を見る心眼のことを暗に言っているのだと思う。
彼は言う。
われわれの感覚はますます分化し、またそのことによって、意識の新領域をますます拡大してきたけれども、眼は眼、耳は耳、頭脳は頭脳に分化してしまって、われわれは有機性を失ってしまった。われわれの眼や耳はじっさい豚の眼よりも、なさけなくなったのだ。眼でききわける幼児のように、われわれは無垢の心と、エネルギーの根源である動物性を回復しなければならない。
~同上書P21-22
心眼を開けと言わんばかり。納得だ。
ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92(1976.9.29&30録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1976.3.4-6録音)
アンタル・ドラティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
半世紀前の録音。
双生児交響曲はいずれも明るい。
苦悩の中にありながら楽聖の心はいつも明るかった、否、というより常に自らを明らかにせんとしていた。
一方、早くから反骨の気概をもって世間に立ち向かった若きベートーヴェンは、その気性ゆえに、生涯にわたって苛烈ともいえる自立の道を歩むことを余儀なくされた。誇り高き精神に裏打ちされた並々ならぬ自信を武器に、ベートーヴェンは音楽に享楽を求める世間の軽薄な要求を拒み通したのである。惰弱な趣味の押しつけから彼が守り抜こうとしたのは、はかり知れぬほどゆたかな宝の山であった。ひたすら心地よい芸術をめざす音楽と同じ形式によりながらも、音の世界に見てとった奥深い真理を伝えようとするベートーヴェンの姿は、常に神がかりの予言者そのものであった。そもそも音楽家は自分の理性では理解できない言葉によって最高の知恵を語り出す、というショーペンハウアーの箴言はベートーヴェンにこそ当てはまる。
池上純一訳「ベートーヴェン」(1870年)
~ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P142
ベートーヴェンが真理に明るかったことは間違いない。
