ブレイン ウォルトン サトクリフ ジェームズ カラヤン指揮フィルハーモニア管 モーツァルト 協奏交響曲変ホ長調K.297b(1953.12録音)ほか

カラヤンは1960年代の、ベルリン・フィルとの録音が何にせよベストだと思うが、個人的にはそれ以前の、フィルハーモニア管弦楽団常任指揮者時代の録音を殊更好む。それは、僕が最初に購入したレコードの影響が間違いなくあると思う。中学3年生だったか、ベートーヴェンの第5とシューベルトの「未完成」をカップリングするという、当時お決まりの東芝廉価盤を繰り返し聴いた。あの日、あの時の風景の残像まで明確思い出させる音楽として、今も僕の脳裏に鮮明な記憶として残る。

カラヤン指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン交響曲全集(1951-55録音)を聴いて思ふ カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集(1961-62録音)を聴いて思ふ カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集(1961-62録音)を聴いて思ふ

当時のフィルハーモニア管弦楽団には名手がたくさんいた。
そのひとり、デニス・ブレインの妙なるホルンの響きに、僕はいつも感動した。
(例えば、モーツァルトのホルン協奏曲集など、心から好んで聴いた。今なお語り継がれる逸品だと思う)

メンタルヘルス・ケアにモーツァルトを メンタルヘルス・ケアにモーツァルトを

昔懐かしい、(今となっては古めかしい?)ぶ厚い響きのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。およそ「ディヴェルティメント(喜遊曲)」などという名称からはほど遠い印象を受ける、しかしながら実に典雅な音響を醸す巨大な音楽たちは、今もって僕の座右の音盤のひとつだ。

偽作の疑いある(他人の改作?)協奏交響曲変ホ長調K.297b(シンフォニア・コンチェルタンテ)がまた古き良き時代の象徴のような、丁寧な音楽作り、そして時間をかけてのレコーディングの妙味が克明に刻まれる。(何と贅沢な時間であろう)

モーツァルト:
・協奏交響曲変ホ長調K.297b(1953.12.17-18録音)
デニス・ブレイン(ホルン)
バーナード・ウォルトン(クラリネット)
シドニー・サトクリフ(オーボエ)
セシル・ジェームズ(バスーン)
・ディヴェルティメント第15番変ロ長調K.287(1952.4.28, 5.2 &1955.5.28-29録音)
・歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588から「恋人よ、許してください」(1954.7.19-21録音)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団

当時のカラヤンには気負いがない。「我此処に在り」などという我がなく、あくまで音楽に奉仕せんとする自然体の様子が感じ取れ、実に心地良い。

青春のモーツァルトが(果たしていかに?)、ここぞとばかりに仕込んだ音楽を、ただひたすら丁寧に音化する姿勢と、管楽器独奏のそれぞれの、音楽をただただ愛する姿勢とが見事に交錯し、類稀なる、美しい音楽を描く。この際、モーツァルトの真作だろうが偽作だろうが、そんなことはどうでも良くなるくらいどこまでも美しいのである。

カラヤンは政治力に長けていた。
ベルリン・フィル音楽監督就任にまつわるエピソードが興味深い。

1935年から41年まで、フリッツ・ブッシュの後継者として、アーヘンの音楽総監督(当時、最も若いドイツ人音楽監督だった)を務めた。1938年、ハインツ・ティーチェンはカラヤンを、レオ・ブレッヒの後継者としてリンデン歌劇場と契約させ、他にプロイセン王立宮廷楽団の交響曲演奏会の指揮を依頼する。同年、30歳となったカラヤンは、初めてベルリン・フィルの指揮台に上る。
終戦をイタリアで迎えた彼は、フルトヴェングラーの差し金でベルリン・フィルやウィーン・フィルから遠ざけられていたため、ロンドンのコロムビア・レコードのプロデューサーであったウォルター・レッグと一緒に、1945年にロンドンで創立されたフィルハーモニア管弦楽団の基礎固めに力を尽くした。レッグは、戦争中に演奏されなかった作品を自社のカタログに入れるため、オーケストラとスタジオ録音を積極的におこなった。カラヤンは、この楽団とベートーヴェンやブラームスのシリーズを吹き込み、“カラヤンのメディア支配”の第一歩を踏み出す。彼は、ウィーン・フィルやウィーン交響楽団を指揮するようになり、さらに、ミラノ、ザルツブルクやルツェルンでも振る。
ベルリン・フィルは、フルトヴェングラーのおかげで音楽界で絶大な信望を得ていたから、その演奏会に彼が招聘されたことは、指揮者としては最高に魅力的なオファーであった。しかし彼を招いたのは、よく言われるようにレコード製作を期待されたからではなく、まったく別の理由からこの選択にたどりついたのだ。

ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P234-235

とはいえ、カラヤンの思惑だけではどうにもならなかった。
しかし、彼は運をも味方につけたのだ。

「指揮をするとき、彼はいつも、さながら聖人のように祈りを捧げ、司会者のように微笑みながら御辞儀をする」(「ベルリナー・モルゲンポスト新聞」、フリードリヒ・ヘルツフェルト)。ヘルツフェルトはさらに、この指揮者には初めから「センセーションを巻き起こすような雰囲気があった」と認めている。それゆえカラヤンが、病気のフルトヴェングラーに託されたアメリカ・ツアーを代理で指揮する候補者また後継者として適任だという話になってきたのだ。
~同上書P235-236

カラヤンがフルトヴェングラーの後継としてベルリン・フィルの音楽監督に就任したのには具体的な理由があった。3つポイントが挙げられているが、ここでは省く。いずれにせよ、チェリビダッケではなくカラヤンであった明確な理由がオーケストラにはあったのである。

カラヤンはやっぱり天才だったのだと思う。
そしてまた芸術だけでなく世事にも通じていた。

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