フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調作品67(1954.2&3録音)、第6番ヘ長調作品68「田園」&第3番変ホ長調作品55「英雄」(1952.11録音)

偉大な音楽の持つ理想、つまりそれ自身の堅固な構造によって時間の充実の、至福な持続の、あるいはベートーヴェンの言葉を借りれば、栄光に満ち満ちた瞬間のイメージを描き出そうというその理想は機能音楽によってパロディー化される。この機能音楽もやはり時間に立ち向かうのだが、時間の中を通過し、時間の力、時間的なものの力を凝縮するのではなく—そうした場合、時間は無に帰してしまうだろう—時間に寄生して血を吸い、時間を装飾するのである。機能音楽はクロノメーターの打つ音を真似しながら、下世話そのままに時間を打ち殺し(ひまをつぶし)ているのだ。ここにも機能音楽がなりえたかもしれないものの正反対の結果が、それもなんと両者が類似していることによって成立しているのが見られる。
テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント/高辻知義・渡辺健訳「音楽社会学序説」(平凡社)P104-105

果して時間の経過とともに世界は大いに変わった。
人間の感性も、その器も、進化か退化かわからないが、大きく変化している。
アドルノにはいささか偏見がありそうだ。

かつて独エレクトローラ社のブライトクランクという、いわゆる擬似ステレオ・フォーマットのレコードを好んで聴いていた時期があった。フルトヴェングラーの晩年のEMIへの録音、特にベートーヴェンの交響曲は、当時の僕にとって大切な座右の盤で、そのすべてをレコードで揃えていた。

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(1954.2.28-3.1録音)ほか フィッシャー フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン「皇帝」(1951.2録音)を聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9番(1951.7.29Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9番(1951.7.29Live)を聴いて思ふ 音楽のない生活 音楽のない生活

1990年代初頭、そのブライトクランク盤がCD化された際、僕はそれをすかさず手に入れた。また数年後に、3番「英雄」、5番、6番「田園」がセットになってリリースされたとき、それも買った。今となってはこのフォーマットは賛否両論だと思うが、これも刷り込みなのかどうなのか、僕には違和感なく、(音の拡がりといい深さといい)むしろ巨匠の音楽をより一層楽しめるものであり、その思いは半世紀近く経過した今も変わらない。

久しぶりに聴いた、ブライトクランク盤にやっぱり僕は感動した。
(ブライトクランクは擬似ステレオとはまったく別物だ)

即ち音の拡がりと深さの快い感覚こそが最大多数の共感を呼び得るものであることを発見したのである。方向的な効果とか、音の集中とか、再生音の幾何学的正確さといった特徴は、スペシャリスト、エキスパート、音響技術者などの興味をひきこそすれ、一般聴取者の注意をあまりひかないものであり、これらに興味を持つ人は極めて少数である。そして多数の人々によって好まれる音の拡がりと深さという特徴は、ステレオ録音にとっては付随的効果にすぎないけれども、シングル・チャンネル録音によっても充分達成し得るものであることを発見したのである。
こういう意図の下にエレクトローラでは数年間実験を続けて来た。そしてその結果、モノーラル録音を深みのある音質と快い感覚に富むステレオ的な幅の広い音に変形させるシステムを開発したのである。

~TOCE-8170-71ライナーノーツ

ブライトクランク・システムは、技術的にもいわゆる擬似ステレオとはまったく異なるようだ

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1954.2.28&3.1録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1952.11.24&25録音)
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1952.11.26-27録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「田園」が前半楽章と後半楽章に分断されていることを除けば実に満足のいくセットだった。
(しかしそれも、かつてアナログ・レコードを聴いていたときはA面とB面とで分断されていたわけだから大して億劫なことでもないはずなのだが、人間の慣れというのは恐ろしいものだ)

すべてが懐かしく、そして今もって随一とさえ思えるベートーヴェンの各交響曲。
その素晴らしさは言葉をどれだけ尽くしても表現し切れないものだ。
人にはそれぞれ、それぞれの体験があり、また体感がある。この際、他者の評価などどうでも良いものだ。半世紀近くの間、僕の中での金字塔たるフルトヴェングラーのベートーヴェン(EMI録音)!!

自律的な音楽には、すべての近代芸術と同様、社会的にいってまず何よりも社会からの距離がある。重要なのは、この距離を認識し、場合によってはそれを証明することであって、隔たったものの偽りの近さや、媒介を経たものの偽りの直接性を、本物であるかのごとく社会学的に見せかけることではない。これが、音楽社会学の社会的理論がその本来の対象である偉大な作曲に接するに際して定める境界である。完全に自律的な音楽においては、生産事情という覆面をかぶった支配者の要求に背を向けることによって、現在の姿をした社会に対する抵抗が行なわれる。社会が優れた音楽について、そのネガティヴなものとして記すかもしれないこと、すなわちその非利用性は、同時に社会の否定であり、それなりに、否定されたものの状態に具体的に従っている。だから、音楽があたかも他の手段による社会の継続にほかならないかのごとく解釈することは、音楽社会学にとって禁物である。
~同上書P397-398

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