わが君は花のごとくに
しとやかに清くうつくし。
わが君をうち見まもれば
なにゆえか愁いは湧きて、
君つねに清くめぐしく
神きみを護りたまえと
手を君の頭に置きて
祈りたき思い湧き出ず。
「君は花のごとく」
~片山敏彦訳「ハイネ詩集」(新潮文庫)P67
クララ・ヴィークとの結婚、長女マリーの誕生と、幸福の絶頂にあったロベルト・シューマンの1841年は「交響曲の年」と呼ばれる。
交響曲第1番に続いて書かれたニ短調交響曲。鮮烈としか表現しようのないロベルト・シューマン。何というインスピレーション。作曲家が最初に得た第一念というのは、相応の説得力を持つものなんだと僕は思う。
眠れぬ時を過ごしたこの時期のシューマンは、やはり躁状態だったのだと思うが、交響曲ニ短調の初稿を表に出すことを認めなかったクララにとって、(間違いなく幸せだったのだけれど)異常なテンションで作曲の筆を進めるロベルトのその不自然なパワーとエネルギーに戸惑いがあったであろうことは否めない。
それにしても、モダン・オーケストラによる分厚くうねる、そして浪漫的な解釈に慣れた耳に、ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークの、引き締まったテンポによる音楽は衝撃的。
シューマン:
・交響曲ニ短調(1841年初稿)
・交響曲第2番ハ長調作品61(1845-46)
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク(1997.5&10録音)
ところで、クララはあくまで(現在一般に認知される)1851年の決定稿にこだわったが、それに対しブラームスは、粗削りながら美しく透明な響きをもつ初稿を推したと言われる。男は浪漫を求める生き物で、女はやっぱり現実的なんだろう。(その意味では僕は中庸だ。いずれの版も長短を有し、捨て難い)
ちなみに僕の空想では、初稿は金剛界にあり、決定稿は胎蔵界にあるというもの。2つは対なのである。
一方のハ長調交響曲。
特に、憧れの第3楽章アダージョ・エスプレッシーヴォは、実に軽快で、それでいて祈りの念がこもり、この作品が苦手だという輩にはぜひとも薦めたい名演である。さらには、終楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの鬱から躁に転じる開放感。快濶な行進曲は、であるがゆえの不自然な明るさをもつ。
樹々みな鳴って
巣はみな歌う―
緑の森の管弦楽の
指揮者は誰ぞ?
「樹々は皆」
~同上書P137
塞ぎ込みたくなるほどの暗いときがあっても良い。また、飛び跳ねたくなるほどの明るいときがあるのも良い。生きとし生けるものとの大調和。ジョン・エリオット・ガーディナーの類稀なる音楽性。
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私にとってシューマンは、もう懐かしさはあっても積極的に聴こうという対象にはなれなくなったんですよね。数年前まではあれほど好きだったのに、憑き物が落ちたようです。一言で白状すると、飽きたんでしょうね。スコアの版について知的興味はある一方で、音盤の8割以上は処分してしまいました(ちなみにブラームスは99%くらい)。
好きの反対は嫌いではなくて、「無関心」というのは真実ですね。まさしく恋愛と一緒です。それを覆してくれる、燃えるような心狂わす実演にこれから先出逢えるのか、いささか心もとないのが正直なところです。
>雅之様
悟りの境地ですね。
歳を重ねるごとにそういう対象は増えていくのでしょうかね。
クラシック音楽に限れば、特に19世紀ロマン派のものは(作曲家の個人的な体験や感情がより移入されている分どちらかというと私小説的で)そういう対象になりやすいのかもしれないなと思います。
僕は音盤を処分するところまでは至っておりませんが、何だかおっしゃることはわかる気がします。
>好きの反対は嫌いではなくて、「無関心」というのは真実ですね。まさしく恋愛と一緒です。
実感を伴ってのお言葉有難く頂戴いたします。