
金管群が弱いが、さすがにワルター最後の録音セッションの一つだけあり、音楽への共感が素晴らしく、実に謙虚に、そして自然体で楽譜に向き合っている様子が垣間見える。
(こうなったら録音計画にあった第8番が残されなかったことが実に残念だ)
1920年代のブルーノ・ワルター。
こうして私の外面的な《生活空間》が拡張されていった一方では、自分に最も固有の領域においても、さらには私自身の魂のなかでも、新天地を発見するという幸福が与えられた。私はブルックナーを発見したのである。妙な話だが、やっと50歳近くになって大作品を創りはじめたひとりの天才を認識するために、私もまたほぼ同じ年齢になる必要があった—彼が『ヘ短調ミサ曲』を書いたのは、44歳の時であるし、重要な一連の交響曲のはじまりである『第3』が書かれたのは、49歳のときであった。真価は解らなかったにせよ、私はなん年もまえからブルックナーの作品を知っていた。ときにはミュンヘン、ベルリン、ウィーンで彼の交響曲を、熱心に骨折って指揮したこともあった。彼の主題は大好きだったし、充実した高度の霊感には驚嘆したけれども、それにもかかわらず私は、自分が《局外》にいることを感じていた。彼の形式構成は、私には不可解だった。それは均整を欠き、誇張が多く、原始的だと思われた。彼の音楽の感情内容は、その霊的な力と深さとによって私の心を奪い、ときにはオーストリア風な優美さによって私を喜ばせはしたが、ただ私は彼の踏まえる地盤に住みつくことができず、ブルックナーの作品という記念碑的構築と完全に一体になることは、禁じられているように思われた。それがとつぜん変わったのである—おそらくこれには、私が病気のあいだに獲得したより高い成熟と、より深い安静とが寄与していたのであろう。なぜなら、ブルックナーはきわめて純粋な音楽家であり、根源的な音楽の泉から生まれた彼の交響楽法はすべての思想的な連想から遥かに遠いけれども、しかし彼を理解し愛するためには、一定の霊的な基本状態が要求されるからである。—ケルン大聖堂のゴチック様式は、当時まだ私には理解できぬままであったが、ブルックナーの交響曲のゴチック様式は—というのも、ここでは一種の音楽的なゴチックが問題なのである—いまや私のまえに扉を開いた。旋律的な内容、聳えたつ構築、交響曲の感情の世界、これらのなかに私は、それを創造した人の強大で敬虔で子供のような魂を発見した。そしてこの感動的な認識から、彼の音楽の内容と形式もまた苦もなく解明された。それ以来ブルックナーの作品が私の人生において、どれほどの意義を持つようになったか、彼の音楽の美しさと交響的な迫力とに対する私の讃嘆の念が、どれほど高まりつづけていったか、彼の音楽が私にとって、どれほどたえず溢れる豊かな向上の泉になったかは、とても言いつくせないことである。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P381-382
ワルターの信仰告白のような、アントン・ブルックナーへの慈愛を説く回想が素晴らしい。
ここで巨匠はブルックナーの音楽の本質を見事に言い当てている。そして、その本質が、ある日、あるとき、「突然に」わかったというのである。
(音楽的ゴチックを問題にする以上、ワルターには交響曲第5番をぜひとも録音しておいてほしかった。まさにワルターの信条にうってつけの交響曲であろうゆえ)


・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団(1961.3.11, 13, 19, 22 &27録音)
ブルックナーの神聖な要素はどちらかというとスポイルされ、音楽はとても「人間的」だという一言に尽きる。つまり、内的な信仰衝動に重心を置くのでなく、むしろ外から祈りを俯瞰するような演奏ゆえ、人によっては物足りなさを覚えるかもしれない。個人的には、じっくり、そしてゆっくり歌う第3楽章のトリオ部こそ人間ワルターの真骨頂だと思う。
そういう僕も、かつてはワルターのブルックナーにそういう感想を持っていた。
しかし、今は少々違う。この、ヒューマニスティックなブルックナー、(第2楽章アダージョのクライマックスなど少々うるさく感じられる箇所においても)とっつき易さを感じるのである。実にあっけなく奏されるコーダもむしろ自然体で美しい。




