マリア・カラスのヴェルディ歌劇「リゴレット」(1955.9録音)を聴いて思ふ

全盛期のマリア・カラス。
プライヴェートも充実していたその頃の歌は、とても刺激的。

ミラノの家で暮らしていたときのマリアと私ほど幸せなカップルはいなかった。彼女は私のそばにいさえすれば幸せだった。私はいつもとても早起きだったので、彼女は、メイドがコーヒーを持ってくる九時には自分と一緒にいてくれと言い張った。彼女の「おはよう」という挨拶と、体調はどうかという問いかけのあとで、われわれはその日の予定を話しあったものだ。私はいつも彼女の着がえを手伝ったが、二人ともそれが楽しみだった。髪もとかしてやったし、ペディクアだってしてやったよ。
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P226

後年のメネギーニによる回想のこの言葉には一抹の寂しさが感じられなくもないが、1955年頃のマリア・カラスは確かに幸福の絶頂にあったのだろうと思う。

イタリア歌劇の熱狂。
音楽の枠組みを超え、直接的に投げかけられる感情の塊。
例えば、第2幕、リゴレットと愛娘ジルダとのシェーナと二重唱「いつも日曜に教会で~娘よ、お泣き」のあまりのリアルさ。

祝日の度に教会で
主に祈りを捧げる時、
若くて魅力的な男性が
私の目に映ったのです・・・
互いの口は閉じていても、
心は目で語り合ったのです。
彼は昨日、暗闇の中で密かに
私の所を訪れ・・・
自分は貧しい学生だと、
激情的に語りました、
そして熱い鼓動と共に、
愛を打ち明けたのです。
彼は去り・・・私の心は開かれました、
喜びでいっぱいの希望へと。
そこに突然現れたのです、
私を攫ったあの人たちが、
そして強引に連れてこられたのです、
残酷な不安のうちに。

ここでのカラスの歌唱の深みと美しさは筆舌に尽くし難い。
また、それに応えるティート・ゴッビ扮するリゴレットの愛情こもる歌。

・ヴェルディ:歌劇「リゴレット」
マリア・カラス(ジルダ、ソプラノ)
ティート・ゴッビ(リゴレット、バリトン)
ジュゼッペ・ディ・ステーファノ(マントヴァ公爵、テノール)
ニコラ・ザッカリア(スパラフチーレ:、バス)
アドリアナ・ラッザリーニ(メゾソプラノ)
ジュウゼ・ジェルビーノ(ジョヴァンナ、メゾソプラノ)
プリニオ・クラバッシ(モンテローネ伯爵、バリトン)
ウィリアム・リッキー(延臣マルッロ、バリトン)
レナート・エルコラーニ(延臣ボルサ、テノール)、ほか
トゥリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1955.9.3-16録音)

なるほど、カラスは幸せだった。しかし、一方で、彼女が妬みや誹りの中にあったことも事実。ほとんど足の引っ張り合いのような、器の小さいエピソードに触れると、こう言った歌手たちが創造した作品までがせせこましく感じられるのだから何ともったいないことか。

この年を通じて、カラスは芸術家としての輝かしい業績を残し、大いに達成感を味わった。ほかにも感謝すべきことがあった。献身的な夫と居心地のよい家が、彼女にとっては大きな存在だったのだ。しかし、人生のマイナス面に気をとられていたせいで、彼女は心の平安を保つことができなかった。仕事仲間どころか聴衆の一部からも敵視されていること、バガロジーに利用されかけたこと、真の友人だと信じていたシカゴの人びとに裏切られたことによって、彼女は深く傷つき、落ちこんでいた。
~同上書P228

実際、デル・モナコやディ・ステーファノの嫉妬や恨みからの嫌がらせ的行為は度を過ぎたものだったそうだから、いかに当時のカラスがずば抜けていたかということ。それにしても人気歌手たちの大人げなさにはほとほと呆れる。
それにしてもセラフィン指揮によるスカラ座管弦楽団の創造する灼熱の音楽に畏怖の念さえ覚える。

※太字対訳は「オペラ対訳プロジェクト」より引用

 

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