peter gabriel ein deutsches album (1980)を聴いて思ふ

40年近く前のアルバムだけれど、収録された楽曲はいまだに新しい。
いつの時代にあっても古びないという奇蹟。それは、視点を180度転換しているからだといえまいか?
僕が初めてこれを耳にしたのはリリースから4年後の1984年のこと。卒倒した。
そして、それから数年後、全編ドイツ語で歌われる版を知った。

ぼくは侵入者とか、違う世界に入りこむっていう考えが気に入ってね。こそ泥やただの押しこみ強盗ももちろん侵入者のうちに入るけど、もうひとつ、セックス的な意味合いも含ませた。この部分をもっとオープンにしようとしたんだ。それでもって恐怖の瞬間を強調しようとした部分もあるんじゃないかな・・・
スペンサー・ブライト著/岡山徹訳「ピーター・ガブリエル(正伝)」P200

ピーターの言葉は寓話的でありながら実に本質を突く。

思うに、人にはアドレナリンがどっと高くなるような体の状態がいろいろとあって、そんなときは普段の状態に得られる情報よりも、心に焼きつくものが大きいよね。この曲も一種の緊迫感を強めようとしているんだ・・・
~同上書P200-201

どんな体験にせよ、非日常的な体験が心に残るのだ。

ある意味で、犠牲者は加害者と同じように罪があると思うよ。自分自身で演じる心理劇の、ぼくたちはすぐれたキャスティング・ディレクターであり脚本家でもあるんだよ。自分が心の中で求めている反応ばかり示してくれる人に囲まれたいという道を人間を選ぶんだ。
~同上書P201

僕たちは皆システムの中にあり、良くも悪くも相互の関係の中にあるということを知らねばならない。

レイプは議論の多い問題だから、犠牲者にも責任があると言えば、まさかって感情がくるだろうね。だけど、夫に暴力をふるわれる妻の行動パターンを見ればもっと冷静に見つめられるんじゃないか。そういう妻の中にはひとりの男から別の男に移ってこれで三人目だっていうのもあり、相手はみんな暴力的な男だったりする。サド・マゾの場合はそういうパターンや関係がはっきりしているし、意識や理性で受け入れられないようなこととか、法律が許さないような他のいろんなことでもそれは言えるんだ。
~同上書P201

被害者と加害者のイコール性。言葉尻だけをとらえれば、ピーターはとんでもないことを言っているのかもしれない。しかし、魂が何千年という単位で存在するという前提で考えるならば、人間の作る罪というのは、今生において記憶がないだけで、本当はとても根深いものがあるのかもしれない。
錚々たるメンバーが揃ったピーター・ガブリエルのサード・アルバム、久しぶりにそのドイツ語版を聴いた。

・peter gabriel ein deutsches album (1980)

Personnel
Peter Gabriel (lead vocals, backing vocals, piano, synthesizer, bass synthesizer, drum pattern, whistles)
Kate Bush (backing vocals)
Dave Gregory (guitar)
Robert Fripp (guitar)
David Rhodes (guitar, backing vocals)
Paul Weller (guitar)
Larry Fast (synthesizer, processing, bass synthesizer, bagpipes)
John Giblin (bass)
Tony Levin (Chapman stick)
Jerry Marotta (drums, percussion)
Phil Collins (drums, drum pattern, snare drum, surdo)
Dick Morrissey (saxophone)
Morris Pert (percussion)

音楽は言葉を超える。
言葉の違和感よりも、やっぱりその音楽の素晴らしさに唸る。
“Keine Selbstkontrolle (No Self Control)”でのケイト・ブッシュによるバッキング・ヴォーカルのパターンは、オリジナル版と異なる。それがまた何とも粋。あるいは、”Spiel ohne grenzen (Games Without Frontiers)”での彼女の歌はオリジナルの英語のままだが、あの可憐な声が天使のそれのように響く様がやっぱり素敵。そして、名作”Biko”に酔いしれる。

Die lange Nacht ist viel zu heiß
Ich traum nur moch in rot
Die Welt da draußen ist Schwarz
– weiß
nur eine Farbe tot

Oh Biko
Yihla Moja
– er ist tot

それにしても、ドイツ語版をリリースする必然性はどこにあったのだろう?
いや、詮索するのは止めよう。一粒で二度美味しいのだから。

 

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2 COMMENTS

雅之

>音楽は言葉を超える。

今回も、当然ここに喰いつきます(笑)。それが岡本様の、どうしても譲れない生命線ですか(笑)。

昨日の続き。

今は、音楽も文学も、制作が手書きではなくなったことの功罪が大きいですよね。

https://www.finalemusic.jp/clubfinale/know/shota.nakama.php

一度、このブログも、手書きでPDF化してみませんか(笑)。まったく違う内容になりそう(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

同じようなことを繰り返し書いている時は、大抵酔って頭がぼーっとした状態で書き連ねている時です。(笑)

>一度、このブログも、手書きでPDF化してみませんか(笑)。

それは名案!
というか、PDF化はともかく、手元に差し当たってPCがないときは、思いついたことをノートに手書きしておいた上で、あとからワードで仕上げるということもあります。
確かに内容は変わるかも。(笑)

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