バーンスタイン・イン・リハーサル&パフォーマンス(1988.7.16Live)を観て思ふ

こんなに人間性を感じたのは初めてだ。彼は音楽への見方を変えてくれた。

レナード・バーンスタインの音楽はとても人間的。晩年の彼と共にひと時を過ごし、一つの音楽を作り上げた若者たちは実に素晴らしい体験をしたことと思う。
死の年、札幌でのパシフィック・ミュージック・フェスティバルのリハーサル(シューマンの交響曲第2番)もとても示唆に富むものだが、1988年、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭での、選抜された120名の学生オーケストラを相手にしてのショスタコーヴィチのリハーサルは果たしてそれ以上に興味深い。
メンバーの一人はかく語る。

作品だけではなく、作曲家まで親しみやすくしてくれた。ショスタコーヴィチに親しみが湧いたわ。

作品の新たな側面を巧みな表現で浮き彫りにし、演奏する者に、同時に観るものに新しい発見と気づきを与えてくれるのがバーンスタイン。リハーサルでは、彼は最初の2つの楽章はいわば混沌で何気なく、だからこそできるだけ感情を排せよと諭し、フィナーレこそ本物だと伝える。なるほど、ワーグナーの「指環」から「運命」の動機や「エルダ」の動機の木魂が聞こえ、「トリスタンとイゾルデ」からの引用もみられる最後の楽章は、ショスタコーヴィチの天才を如実に示す。
第1楽章アレグレット冒頭の、クラリネットのソロの部分を繰り返し練習させ、プレイヤーに「本当に難しい、何度も練習しなきゃ」と言わしめる厳しさがあれば、第3楽章レント冒頭のオーボエ・ソロを「4小節ごとに息継ぎをした方がベターだ」と教えるも、プライド高い(?)若者が「一息でできると思う」と遠慮がちに反論したのに、「私はあった方が良いと思うが、それならば息継ぎをするふりをして一気に吹きなさい」と妥協点を提示し、あくまで奏者の考えを大切にする優しさ(というか潔さ)もある、巧みな人心コントロール術に僕は心底感動した(実際には、オーボエの彼は本番ではきちんと息継ぎをとっていたように見えるので、そこは巨匠を立てたのだろうと思われるが)。

バーンスタイン・イン・リハーサル&パフォーマンス
・ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調作品10
—リハーサル(1988.7録画)
—コンサート(1988.7.16Live)
レナード・バーンスタイン指揮シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭管弦楽団

漸次、音楽がバーンスタイン色に染まり、また人間ショスタコーヴィチの魂までもが抉り出され、指揮者自身も気づかないうちいつの間にか美しくも強烈な音楽が創造される妙。学生オーケストラとの丁々発止のやり取りが一層の感動を喚起する。

本番が素晴らしい。
独奏楽器が縦横に活躍する第1楽章をバーンスタインは「腕白坊主」と名付けるが、さすがに選抜されただけあり、学生と言えどオーケストラの技術に遜色はない(むしろバーンスタインの棒に素直についてゆく懸命な姿が美しい)。また、「わざと揃わないオーケストラの真似」だとする第2楽章も、バーンスタインが納得するまで繰り返し仕上げただけあり、見事なバランスを保つ。そして、後半2つの楽章では、バーンスタインが「本物」と言うだけあり、最後の大団円に向けてオーケストラ全員がひとつになるパフォーマンスが繰り広げられる。
何というパワー、何というパッション!

僕は学ぶことが大好きなんだ。僕は永遠の生徒だ。おそらく、それだから、僕はちょっとはマシな教師なんだ。
ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P88

 

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