一般的には中途半端と言われるが、それは、裏を返せば中庸ということで、実はそれくらいがベストなのではないかと思う。
すでに数多の名演奏の存在するベートーヴェンの第9交響曲ともなれば、ディレッタントの誰しもが一推しの演奏を持っており、それを喧々諤々と議論することすらそもそもナンセンス。少なくともクラウディオ・アバドが手兵となったベルリン・フィルとともに録音しようとするのだから、聴き手があれこれと勝手な評価をするのはある意味余計なお世話なのである。
プラスでもマイナスでもないものにこそ「真実」があるのでは?
アバドの権威は、まさに音楽を作りあげる場で発揮されます。彼には、共に演奏するオーケストラの心理について、自然な勘が働くのです。プレッシャーをかけたり、急がせたりすることなく、オーケストラを成長させていくのです。強いるようなことはせず、まるでそれを初めて聴くかのように、一緒に作品に近づいていくことができる。楽団員一人ひとりの責任感や信念から、全員をまとめる集中力が生まれます。(・・・)アバドは、変に聞こえるかもしれませんが、音楽における小休符の名人です。小休符は、満たされ、緊迫し、広がり、充電される時間であるべきです。意識して作られた静寂なしには、音楽は生きてこないのです。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P356-357
当時のベルリン・フィルの支配人であるウルリヒ・エックハルトのアバド評である。
自然に委ねる結果が、聴衆に「中途半端さ」を感じさせることになってしまっていることが残念でならない。僕は思う。アバド&ベルリン・フィルの1996年の第9は決して凡演ではないと。
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ジェーン・イーグレン(ソプラノ)
ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)
ベン・ヘップナー(テノール)
ブリン・ターフェル(バス・バリトン)
スウェーデン放送合唱団
エリック・エリクソン室内合唱団
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1996.4Live)
「意識して作られた静寂なしには、音楽は生きてこない」という表現の絶妙さ。
ひょっとすると、それがあまりに「意識的過ぎる」ものだから、聴く人によっては抵抗を覚えるのかもしれない。
ちょうど20年前のザルツブルク復活祭音楽祭での第9における、理想的なテンポに興じる第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソの明快さ。剽軽でありながらどこか真面目な第2楽章スケルツォを経て、第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの朗らかな牧歌。ここまでが真骨頂。残念ながら言葉を携えた終楽章に至っていまひとつの感が否めない。歌手は皆がんばっているのがわかるのだけれど。
大切なのは「静寂」だ。
アバドはそのことを先天的に認識していた。
時を経るにつれ、彼の音楽は愛され、評価されるのだろう。
最も重要な癒しの要素である、「静寂」に溢れているゆえ。
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