ワルター指揮ウィーン・フィルのマーラー「大地の歌」(1936.5.24録音)を聴いて思ふ

しばれる寒波に酔いも醒める。
適度の酒は、つながりを強固にする。

もしも悲しみが忍び寄るなら、
心の花園は荒涼と素枯れて、
喜びも歌声も、色あせ、滅び去ってしまうだろうから。
生は暗く、死もまた暗い。
(西野茂雄訳)

「現世の悲しみを歌う酒宴の歌」。生きることは呪縛である。そして、その呪縛からいかに逃れ、自由になるかが各々に課せられた劫。解き放つべし。

増大するヨーロッパの災いもまもなく日々の体験になった。オーストリアでは国家に敵意を抱くナチズムがますます遠慮なく頭をもたげ、ドイツから威嚇のひびきが伝わってきた。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P426

ブルーノ・ワルター最初の「大地の歌」。まさに、謂れのない現世の悲しみ押し寄せる欧州の未来までをも嘆く第1楽章。チャールズ・クルマンのテノールがあまりに虚ろに響く。また、第2楽章「秋の日に独りありて」の、ケルスティン・トルボルイの淵の底から発光するような歌唱にひれ伏す思い。ウィーン・フィルのうねる管弦楽に思わず感動。そして、第3楽章「青春の歌」の、東洋と西洋が融合する美しさ。ここにあるのはまるで空想の館。

あずまやには仲間が集っている。
いい着物を着て、酒を飲み、おしゃべりをし、
たいがいの奴は詩を書きつけている。
(西野茂雄訳)

目の前に通り過ぎる機をいかにつかむか。縁というものは本当に不思議。

・マーラー:交響曲「大地の歌」
チャールズ・クルマン(テノール)
ケルスティン・トルボルイ(アルト)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1936.5.24録音)

男声と女声が交互に奏されるところに陰陽の統合があり、マーラー晩年の、ワーグナーの「再生論」に影響を受けた生き様の投影があるのだと思う。

ところで、フィッシャー=ディースカウに関して、ご質問にお答えします。「大地の歌」の私の初演奏(初演)には、偉大な芸術家フリードリヒ・ヴァイデマンを配していましたが、マーラーの指定では、アルトかバリトンかの選択は、私の自由に任せられたからこそでした。二度とせぬ、と私は当時思いまして、そのときから常に女性アルト歌手を用いたのです(カイエ、トールボルク、オネーギン、フェリアーなど)。私はフィッシャー=ディースカウをきわめて高く評価しておりますが、彼にはなにとぞお伝え下さい、二つの男声は作品のためにならぬと。
(1957年12月5日付、ヴォルフガング・シュトレーゼマン宛)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P349

ワルターの言には、いちいち説得力がある。終楽章「告別」の神韻縹緲たる調べに作曲者グスタフ・マーラーの天才、そして再生者ブルーノ・ワルターの師への忠誠を思う。

太陽が山の彼方に去り、
すべてに谷々に夜が降りてくる、
ひえびえとした影とともに。
おお、見よ、しろがねの小舟のように
月が青い大空の海に浮ぶ。
(西野茂雄訳)

音楽は時代の空気を吸収する。ヨーロッパの黄昏を刻印する、何とも悲しい歌。嗚呼、何という切なさ。

 

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