バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン第2番&第4番(1978Live)を聴いて思ふ

リリース当初から評価の高い、名盤とされる一組。
しかしながら、僕はその頃から、いまひとつその理由がわからなかったし、40年近く経た今も残念ながらその価値がわからないでいる。

ひとこと、外面的に過ぎるように思う。
もう少し後、最晩年の演奏にあるうねりや粘りの欠けた、「普通の」解釈。それでは正直物足りない。たぶんそれは、相手がベートーヴェンだからなのだと思う。

ベートーヴェンの交響曲は指揮者にとって踏み絵のようなもの。それを新しい方法で、しかも意味深く有機的に再生できる指揮者は少ない。仮にベートーヴェンを得意とする音楽家でも、時と場所によって出来不出来をこれほどまでに如実に見せつけられるだから実に恐ろしい。

バーンスタインにとってベートーヴェンはモーツァルトやマーラーと同じく神だった。

ご自身の指揮が治療の力を持っていると思いますか?
どの作曲家の作品が効果がありそうですか?
という質問に彼は次のように答える。

モーツァルト・・・、ベートーヴェン・・・、マーラー。
ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P106

モーツァルトはともかく、マーラーかと驚いたが、なるほど確かにそうかもと納得。

ベートーヴェンはどうしていつもすべてを切り裂き、帳消しにしていたと思う?彼はいつも最初から始めていたから、いつもよりよいものができた。
~同上書P135

ベートーヴェンは中庸や調和というものを知っていた。
彼の音楽が常に革新的であるのはそれゆえ。そのことをバーンスタインはやっぱりわかっていた。たぶん、最晩年にあらためて彼がベートーヴェンのツィクルスを実施していたら音楽はもっと違ったものになっていたのだと思う。

ただし、変ロ長調交響曲は美しい。

ベートーヴェン:
・交響曲第2番ニ長調作品36(1978.2Live)
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1978.11Live)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

少しためがあり、粘りのある第2楽章アダージョがバーンスタインらしく、ウィーン・フィルの優しく柔らかな音色にも感服。また、第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの終結もいかにも。そして、怒涛の終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは怒りのベートーヴェンの真骨頂。

音楽の再生には、指揮者の幼年時代の記憶が刻印される。
果たしてバーンスタインはどんな少年時代を送ったのか?

シナゴーグで音楽を聴いていると、まるで私の感受性が―もちろん無意識的に―音楽を生きる理由として発見すべく態勢を整えているかのように、何かが私の中で活気づいたものでした。宿命について語ることが可能かどうか私には分かりません。私が、私を抑圧していた何かに対して抵抗するために、私の父に対する一種の無意識的な反発から、まるで仕返しをするかのように、音楽に夢中になったのかどうかも分かりません。後に、精神分析に興味を持つようになると、私は、当時の私の精神状態や行動を分析しようと努めながら、そうした痕跡を深く考えてみました。けれども、フロイトの論文や著作をそれに必要なだけ研究している暇があったためしは未だかつてありません。精神分析の基本的な試論を精読しようと思うと、ウィーンでベートーヴェンの「英雄」、あるいはロンドンでマーラーの第6番を指揮しなければならなくなってしまうのが常でした。それでも、フロイト、アードラー、ユングの本を読んで影響受けましたが。
バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P42-43

抱える人は得てしてフロイトやユング、アドラーなど心理学に興味を持つのである。
音楽とはまさに負の美学。だからこそ美しい。

 

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