Keith Jarrett “Vienna Concert”(1991.7.13Live)を聴いて思ふ

ウィーンの夏。通常、国立歌劇場では催事は行われていない。
あの年の7月のある日、壮麗な舞台上で、ひとりのピアニストが1台のピアノと格闘した。水を打ったような静寂の中で繰り広げられた台本のない即興という名のパフォーマンスは、残された記録を耳にしても信じられないような緊張感を全編維持し、聴く者を圧倒する。

1台のピアノによる音詩。
たったひとりで、それこそひとりきりで傾聴すればわかるというもの。
音楽とともに、静かに、そして孤独に内面を見つめること1時間超。
心は騒めき、ものの5分も経ぬうちに、僕の魂は発火点を迎えた。
徐に祈りを込めて始まった一粒の音が、鼓動を始める瞬間のカタルシス。
時に足を踏み鳴らし、時に唸り声をあげるのはキースの常套。
彼の奇声すら音楽の一部なのである。

・Keith Jarrett:Vienna Concert recorded at Vienna State Opera (1991.7.13Live)

Personnel
Keith Jarrett (piano)

たった今生まれ、その場で紡がれてゆく奇蹟の音楽は、筆舌に尽くし難い美しさ。40分超に及ぶパート1の信じ難い構成の妙。25分以降の、祈りが爆発し、蠢く音の波状攻撃に思わず手に汗握る。その後、音楽は明朗な音調に回帰するや、徐々に沈潜していく。まるで生から死へのドラマの如し。何より堰を切ったように流れ起きる拍手喝采こそが、聴衆の感動の証。思わず漏らす溜息まで聞こえてきそうなくらい。

そして、ペダルを多用したパート2は、鏡の国での宇宙的共鳴。音につられ、記憶が過去と未来を往復する。最後は祈りの鐘が打ち鳴らされるようだ。

生き残るか、自殺するかというところまでシリアスにならないとインプロヴィゼーションはできない。これが、人に自分の知っていることを伝える最後のチャンスだと思えばどうだろう。これが最後。そうなると真剣になりうる唯一の方法はスポンティニアスであることだ。
~「ジャズ批評No88」P74

さすがキースは良いことを言う。スポンティニアス、すなわち自発こそが彼の音楽にある生命力の源泉。都度新しいものが創造されるキース・ジャレットの即興パフォーマンスは、強烈な集中力の賜物。また、聴く側にも異様なほど集中を強要する演奏は、幾度聴いてもいちいち新たな発見をもたらしてくれる。

 

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