地上の楽園

beethoven_9_norrington_london_c_players.jpgかれこれ30年近く前の浪人時代、入試科目の一つに「世界史」をとった。当時からクラシック音楽が好きで、作曲家の生涯やヨーロッパ諸国の時代背景、あるいは文化に興味をもっていたから当然のように選択した。参考書を片手に、あるいは歴史書をひもときながら、東西の歴史について一生懸命勉強した、否、というより憶えた。とにかく「歴史」を学ぶことは面白かった。

とはいえ、所詮受験のための「時間」に過ぎなかった。残念ながら多くのことが記憶の彼方にすっ飛んでしまっている。特に、近代から現代にかけてのヨーロッパ史は、その中に現在にも通じるヒントが多く隠されており、学ぶことが多い故、あらためてじっくりと学んでみたいと思うのだが、なかなか時間と余裕がそれを許さない。

ところで、「秘密諜報員ベートーヴェン」(古山和男著)の推理、考察には目から鱗が落ちた。確かにフランス革命後のヨーロッパ情勢、ナポレオンの登場から没落、ウィーン体制にかけての時代―そう、まさにベートーヴェンが生きた頃は、今以上に世界情勢が急上昇急下降した驚くべき時代だから、「不滅の恋人」への手紙が暗号文書だったという説には極めて納得がゆく。それに「エリーゼのために」という楽曲。原題を”Für Elise”というが、エリーゼという女性が楽聖のそばにいた事実はなく、ベートーヴェンの悪筆がもたらした楽譜出版社のミスで、本当はEliseではなく、Thereseだったのではないかという説が一般的な中、著者はその学説すらも一刀両断する。ドイツ語の”Für”には英語の”For”同様「~のために」という意味のほか「~に向かって」という意味があることと、何より”Elise”はラテン語の”Elysium”(すなわち自由を得た地上の楽園をめざせという意味になる)を意味する暗号だというのである。ちょうど「エリーゼのために」が作曲されたのが、1908年か10年ということだから確かにその可能性は十分だが、そうなると、この音楽の持つ意味やイメージが根底から覆されることになる(そう思って聴くとこの音楽が単なる恋人へのメッセージでなく、人類に向けての崇高なる呼びかけに感じられるのだから面白い)。

それから十数年後、いよいよ楽聖は天下の傑作第9交響曲を世に問う。そして、第4楽章「歓喜の歌」の詩には以下の箇所がある。

Freude, schöner Götterfunken,
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
Tochter aus Elysium
天上の楽園の乙女よ
Wir betreten feuertrunken.
我々は火のように酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
崇高な汝の聖所に入る

冒頭の”Freude”(歓喜)という単語がもともとは”Freiheit”(自由)だったということを考え合わせると、「エリーゼ」と「歓喜」の共通性が浮き彫りにされ、ベートーヴェンが生涯を通じて求めたことが一層確かになる。そもそも、いつ誰がそう呼ぶようになったのか知らないが、この天下の作曲家を「楽聖」というのだからなお興味深い。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
イヴォンヌ・ケニー(ソプラノ)
サラ・ウォーカー(メゾ・ソプラノ)
パトリック・パワー(テノール)
ペテリ・サロマー(バス)
ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
ロンドン・シュッツ合唱団

ノリントンの新しい方の全集の方が一層素晴らしいが、長年聴いてきた旧盤の方に愛着がある。この「オリジナル楽器」での演奏、かつては全く良いとは思えなかった。とはいえ、ベートーヴェンの言う「自由を得た地上の楽園」を想起させてくれるという意味でとても心地良い。ノリントンは上記の詩の箇所、つまりサビのところではがっくりとテンポをおとして、地に足をつけるようにじっくりと音楽を進めてゆく。聖なる名演奏だ。

7 COMMENTS

雅之

こんばんは。
「・・・ナポレオンのウィーン占領下。市民革命を実感したベートーヴェンは、〝新しい社会〟の風の方へ、するりと身をひるがえした。ナポレオンの兵士で埋めつくされたウィーンのコンサートホールで、ピアノを弾きオーケストラを指揮したベートーヴェンは、つい昨日まで活発にすごした貴族社会のあっけなさを、そのステージでどう感じたろうか。
 そして思いがけないナポレオンの大敗北と、旧社会以上に保守的な貴族層の社会の復活に、ベートーヴェンは戸惑いながらも、ふたたびぬけぬけと新しい権力者たちに顔を向けた。
 彼らから見て一度は旧社会を裏切ったベートーヴェンを、貴族社会はマエストロとして再び受け入れた。が、もはや〝疑惑付き〟のカムバックだ。
 スパイや尾行に悩まされながら、ベートーヴェンは今のわれわれの時代に、大作、名作を多く遺した。何が正しい生き方かはわからない。人生の中で選択するのは本人である。ベートーヴェンは表現者として作品を遺す道を選択した。われわれの生活も、いつも選択の連続である。強く選択するか、受け身の選択かの違いはあっても。ベートーヴェンだったらと、ふと彼の身になってそれを思い描いていただけたら幸いだ。・・・」 私のお薦め本「ドラマティック・ベートーヴェン ~自己プロデュースの達人~」 石井 清司 (著) 出版社: ヤマハミュージックメディア から、著者《あとがき》より
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%90%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9C%AC%E3%80%91-%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3-~%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%81%94%E4%BA%BA~-%E7%9F%B3%E4%BA%95-%E6%B8%85%E5%8F%B8/dp/4636847989/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1279790344&sr=1-1
ご紹介の「秘密諜報員ベートーヴェン」(古山和男著)と併せて読むと、ベートーヴェンは真の意味でのショスタコーヴィチの先駆者だったことがよく理解できます。ベートーヴェンの苦悩の時代と同年齢を生きる私に、ベートーヴェンは何と大きな勇気を与えてくれることでしょう!!
《歡樂頌》
啊!朋友,不要這些調子!
還是讓我們提高我們的歌聲
使之成爲愉快而歡樂的合唱!
歡樂!歡樂!
歡樂,天國的火花,
極樂世界的仙姬;
我們如醉如狂,
走進你的聖地。
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%AD%A1%E6%A8%82%E9%A0%8C&variant=zh-tw
明日から日曜日まで、仕事で北京に行きます。もし現在の中国社会にベートーヴェンが生きていたならば、彼はどう行動するのでしょうか?

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
ベートーヴェンについての新説を知るにつけ、このところ僕の中で盛り上がっています。古山氏の説のおかげで何だか全ての疑問が氷解するようで・・・。
歴史をひも解くというのは本当に面白いですよね。雅之さんおススメの「ドラマティック・ベートーヴェン」も必ず読むようにします。サブタイトルの「自己プロデュースの達人」というフレーズがこれまた気になります。
ところで、出張は北京だったんですね!良いですねぇ。しかし、今頃の北京は暑いんだろうなぁ。
もし、ベートーヴェンが今の中国に生きていたら・・・、
やっぱり真の自由を求めて地下活動をしたんでしょうかねぇ。
中国は外から見ているだけでは絶対にわかりません。僕の周辺でも、何年か中国でビジネスを展開しようとして懲り懲りだという人も多いですから、内部は相当問題あるんでしょうね(一方で中国で上手くやっている人もいます)。
ベートーヴェンなら共産党首脳部に近づきながら、一方で庶民ともうまくやる、そういう特殊技能を使いながら、ビジネスマンとして大成功していたかもしれません(今生きていたら作曲家はやってないでしょう)。

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ふみ

こんばんは。
世界史・・・懐かしい響きですねぇ。僕もあまりに好き過ぎて大学で文学部に進んだほどですから、それはそれはどっぷりはまりました。
意外とこう見えても高校3年時は世界史の全国模試で満点取ってよく冊子に1位で載ってました。プチ自慢です(笑)
ノリントンのベト、良いですよねぇ。ずっと聴くには向いていないかも知れませんがやはりたまに聴くと感心しっ放しのさすがの演奏を聴かされます。この間のシュトゥットガルト放送響との来日公演も足を運びましたがエニグマ・・・凄いの一言でした。オケが10数年もの間、ピリオド演奏をしていたため完璧でした。ああいうのを聴くとやはり日本のアマオケを聴いて「外来オケのレヴェルを遥かに超えた演奏だ」なんて言ってる人の耳を疑います。

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雅之

>ふみ様
>日本のアマオケを聴いて「外来オケのレヴェルを遥かに超えた演奏だ」なんて言ってる人の耳を疑います。
俺、マジ日本のアマオケを聴いて「外来オケのレヴェルを遥かに超えた演奏だ」と思ってるんだけど・・・(笑)。
やっぱり俺もふみさんも一歩も譲らないところは、まさに典型的な「広汎性発達障害」
http://www.fujitanaruhito.com/blog/archives/001582.php
の症状だな、他人から見たら(爆、及び大笑い)。こりゃ面白い。
きっとそのうち何かで大成功すると思う。

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ふみ

>雅之様
僕はやはり最低限のオケのレベルが無いと評価基準を満たせません。精神性とか云々というのはそういったファンダメンタルがあってからの話だと思ってるのでどうしてもアマオケでは僕の中では限界があります。まぁ、こればかりは基準が人それぞれですから何とも言えませんが。
・・・(笑)
僕自身も前々からアスペルガーの一面はあるなとは思ってたんですよね。
何かで大成功・・・良い意味で大成功して新聞載りたいですね。人殺しとかではなく。

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岡本 浩和

>ふみ君
>雅之様
こんばんわ。いやぁ、二人の会話は盛り上がりますね!
いいぞ、いいぞ、その調子!って感じです。
まぁ、感性、感覚は人それぞれですから・・・。
ところで、ふみ君は世界史の全国模試で満点だったんだ!!凄いね。ちなみに僕もかつて浪人時代駿台で1番とったことあるよ。96点だった。やっぱりクラヲタは世界史に強いね(笑)。
それにこの前のノリントン&シュトゥットガルトの来日公演聴いてるんだ!さぞかし素晴らしかったことでしょう。羨ましい。
>ああいうのを聴くとやはり日本のアマオケを聴いて「外来オケのレヴェルを遥かに超えた演奏だ」なんて言ってる人の耳を疑います。
これも一方的な見方といえばそうだから、いろいろ聴いてみることを薦めます。雅之さんが言うように吃驚すぐほど感動する時もあるので。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ノリントン&N響の第9交響曲

[…] 良かった?いや、どうかな・・・(悪くはなかったけど)。 うーん、あくまで僕的に微妙。 フルトヴェングラーやバーンスタインやら、いわゆる浪漫的で粘っこい解釈に慣れている耳には多少の違和感がやっぱりある。しかし、これはあくまで好き嫌いの問題。客観的に判断すると名演奏に違いない。 それでも、音盤で聴いたときはもう少し鮮烈な印象を持ったんだけれど、どうも音の軽さとスカスカ感に拍子抜けしたということなのか。指揮者も奏者もすごく熱かったんだけれど、その様子と出てくる音のギャップに少々戸惑ったということか。とはいえ、音楽が進行するにつれ「意味」はよく理解できた(終楽章の出来が一番良かったかな)。 これはもう少しじっくり振り返って考えてみるべき問題かも。 […]

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