10年後・・・?

toscanini_last_concert_1954.jpgヤナーチェクの歌劇「利口な女狐の物語」の存在を知ったのは、1982年度のレコード・アカデミー賞が発表された時。このメルヘン的でありながら哲学的要素も持つ傑作オペラを指揮していたのが、サー・チャールズ・マッケラスであり、この時初めて僕は彼の名を記憶した。とはいえ、当時の僕にとって、「女狐」は愚か、ヤナーチェクですら相当ハードルが高い作曲家で、「猫に小判」状態も良いところ。後年になり、CD化された頃にきちんと真面目に聴いたが、ようやく最近になってこの歌劇の真髄がわかってきたように思う。人間世界と動物世界が錯綜し、自然との共生、あるいは輪廻転生などをテーマにしたこの舞台の奥は相当に深い。3幕仕立てで、2時間弱という長さもちょうど良い。本来オペラは映像を伴って観るべきものであるが、「ながら」で音だけを頼りに舞台を想像して聴くのも乙なものである(さすがにワーグナーの楽劇あたりになると音だけで勝負するのはいささか辛い年齢に差し掛かった)。

それにしても随分記憶力が落ちた気がする。以前なら、一発で頭に入っていたことが、なかなか入らない。年には勝てないのか・・・。

トスカニーニの最後の演奏会の実況放送録音を聴いた。1954年4月4日のカーネギーホール。オール・ワーグナー・プロを掲げたこの日、「タンホイザー」のバッカナーレ中に指揮者は突如記憶を失くし、棒が止まってしまったのだという(演奏自体は止まらなかった)。そのことに落胆したトスカニーニ翁はいよいよ引退を決意することになるのだが、そのラスト・コンサートの模様がステレオ録音によって残されており、先年Altusによって復刻、リリースされた。残念ながら期待したほどの音ではない(ステレオ感も少ない)。しかしながら、88歳の老指揮者の演奏とは思えないほど、気迫とエネルギーに満ち溢れており、歌うべき箇所においては十分に優雅で洗練された美しさをもつ点が驚異的だ。

ワーグナー:
・楽劇「ローエングリン」~第1幕前奏曲
・楽劇「ジークフリート」~森のささやき
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅
・歌劇「タンホイザー」~序曲とバッカナーレ
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」~第1幕への前奏曲
・リハーサル~楽劇神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅より
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1954.4.4Live)

1930年代前半のバイロイトではトスカニーニの「パルジファル」が語り草になっているようだが、記録はのこっているのだろうか、僕は聴いたことがない。もはや想像するしか方法はないと思うのだが、トスカニーニとワーグナーの音楽の相性は抜群だと、少なくともこのラスト・コンサートの音源を聴いて思った(それにしてもリハーサルにおける独裁者然たるトスカニーニの怒声は驚きだ)。

ここまで書いて、確かカラヤンも晩年の来日公演か何かで振り間違えをしたということを思い出した。指揮者にとって「音楽を忘れること」は致命的だろうが、一方で最後の最後まで舞台に立ち続けたという姿勢は本当に素晴らしいと思う。

ところで、コーチングなどでは必ずと言っていいほど「10年後どうなっていたいか?」と質問される。「キャリア・プランニング」の授業でも、学生に10年後の自分を想像させる。教えている側がこんなことを書くのも何だが、僕自身10年後なんて想像もつかない。自分が何をどうしたいと思っていても、世の中の変化のスピードが半端でなく、「わからない」という答が一番正しいように思うからだ。10年後は愚か、3年後の自分すら想像できない・・・(苦笑)。

ともかく、今やるべきこと、やれることを一生懸命徹底的にやり切ることかな。


10 COMMENTS

雅之

おはようございます。
今朝は7月18日付ブログ本での、『秘密諜報員ベートーヴェン』(古山和男,新潮新書)の話題の続きを・・・。
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusyo/268.htm
昨年10月に出た『ドラマチック・ベートーヴェン~自己プロデュースの達人~』(石井清司,ヤマハミュージックメディア)も併せて読まれると、もの凄く理解が深まります。ぜひ買って読んでみてください。
「ベートーヴェンの〝処世術〟は、巧みというより、天才的と言っていいほどだった。ウィーンはもちろん、ドイツやフランスが反動の時代に入ったとみるや、復活したルドルフ大公にウィーン会議参加国の王族や要人を次々に紹介してもらい、〝変格派〟〝共和派〟の協力者という顔やイメージ、カラーを必死でぬぐおうとした、変わり身の早さっだった。そんなに思い通りに行くほど世間は甘いものではなかったが、その社交場へ積極的に出るようにし、頼まれれば喜んで演奏もしてみせた。
ベートーヴェンがそんな彼らに《ウェリントンの勝利》(戦争交響曲・・・・キワモノとさえみられた)を書いたのは1813年のことである。節を曲げたベートーヴェンの反動の時期と言ってもいいだろう。ベートーヴェンの内心は揺れ、動揺の最中だったと思う。当時の社会で音楽家として実在していくにはそうするしかなかったのである。ウィーンの旧社会は、そんなベートーヴェンを歓迎するそぶりで、事実上はベートーヴェンの旧社会への裏切りを許した。許すふりだったのかもしれない。いずれにせよ、折り合ったのだ。時代の有名人、大作曲家をウィーンの旧社会は必要とした。しかし、権力側は油断せず、ベートーヴェンへの監視は怠っていなかったと思う。ウィーン会議前後、ベートーヴェンを讃え、人気者のポストに据え続けようとした。だが、この芸術家ベートーヴェンは、何らかの意味で一度死んだとみなくてはならないだろう。」
「1815年、ベートーヴェンの弟カールが死んだ。そして、その息子(ベートーヴェンには甥)カールの後見役をめぐり、親族で泥沼のような裁判沙汰が1820年まで続き、ベートーヴェンの神経はズタズタになった。創作力の急速な低下と相まって、ベートーヴェンは作品が書けなくなった。このことでまた、ただでさえ難聴で人を遠ざけたい彼の人間不信が深まったといわれる。ベートーヴェンは1813年から1819年までの6年間、ほとんど大した作品は書いていない。やはり1912年までが豊漁の時だったのだ。
晩年の10年間に限っても、物価は1811年と比べると、インフレのため四倍近くになっていた。ウィーン会議に集まった要人たちは、ウィーン最大の芸術家ベートーヴェンに1816年に銀貨4000フローリンを寄付している。ベートーヴェンはこれでしのいだが、物すごいインフレは、1809年の物価が10倍になるほど、翌1817年にピークに達している。」
「1813年作曲の《ウェリントンの勝利》で、ベートーヴェンは標準貨幣で1400フローリンという大金を得たといわれる。中堅のオーケストラ員の年収が400フローリンだったから、その大金さがわかる。これも(経済)自衛策のひとつだった。」
参考サイト
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E026.htm
より。
・・・・・・1815年 ナポレオン戦争が終ったころ、ウィーンはベートーベンやシューベルトなどの大作曲家が輩出しました。
  ベートーベンの楽譜料:
    交響曲第1番 1801年 90フローリン
    交響曲第9番 1824年 600フローリン
  シューベルトの楽譜料:
    歌曲 1804~13年 18~19フローリン(1曲あたり)
       1822~28年 20~25フローリン(1曲あたり)
  シューベルトの1825年の家庭教師料は、2時間で1フローリンでした。・・・・・・
他に、ベートーヴェンのウィーン脱出・ロンドン亡命計画とウィーン官憲やウィーン貴族社会の阻止という興味深い話題もありました。イギリス系フリーメイソンとの関わりなど《ウェリントンの勝利》は、まだまだ気になることが多いです(初演に打楽器指揮で参加したサリエリもフリーメイソン)。
>「10年後どうなっていたいか?」
ベートーヴェンの時代も、我々の時代も、一寸先は闇でした。
「そしてまた、次の時代も現在の我々の時代も、ベートーヴェンの作品、世界を受容しようとする時、客観的といいながら自らの時代と社会にふさわしいものとして許容しようとし、してきたのではなかっただろうか。航行する大艦の羅針盤が、大波に上下左右揺れようと、つねに平衡を保ち、ある方向にしっかり指針しているように。ベートーヴェンを抱く我々の社会もまた、そんな羅針盤的な柔構造を持ち合わせているのだと――。」『ドラマチック・ベートーヴェン~自己プロデュースの達人~』(石井清司,ヤマハミュージックメディア)より、必読です!!

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
『秘密諜報員ベートーヴェン』は必読ですね。
ご紹介のサイトにも書かれてある通り、従来の説を根底から覆しながらも非常に説得力のある説で、感心しきりでした。こういう観点で彼の楽曲を聴き直してみるとより一層その意味が深くわかるようになるのではと思いました。
>ベートーヴェンのウィーン脱出・ロンドン亡命計画とウィーン官憲やウィーン貴族社会の阻止という興味深い話題
>イギリス系フリーメイソンとの関わり
面白そうですね!
こうなると「ドラマティック・ベートーヴェン」も何としても読みたくなります。ベートーヴェン、熱いです!

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ふみ

おはようございます。
まず、始めに先日のエルーデサロンでは大変お世話になりました。
久しぶりに岡本さんと色々なお話が出来て心底楽しかったです。
その証拠とばかりに頭から尻までお邪魔してしまい申し訳ございませんでした。
やはり手相に出てる通り僕はかなりのKYらしいです(笑)
また、大変貴重な朝比奈尊氏のチャイ6までいただいてしまい本当に本当にありがとうございました。感謝感激雨あられとはこの事です。
早速、家で十回以上聴きましたがやはり白眉は1楽章でした。展開部の重厚さには度肝抜かれました。元来、ドイツ風(この言葉は曖昧で使うのを躊躇いますが)の重厚で馬力、推進力に富んだチャイコフスキーが好みなので瞬く間にいただいたCDがチャイ6お気に入りに入りました。
ただ、やはり4楽章だけは未だに気持ち悪くて聴けません。4楽章の良さって何なんでしょうか?マラ9の終楽章に通ずる死や諦観の境地でしょうか?僕には4楽章はどうしてもただの同姓愛者の被害妄想世界としか思えません。朝比奈尊氏の演奏の素晴らしさに感動しながらも、やはり作品自体に感動出来ない自分がいました。
せっかくいただいたにも関わらず生意気な意見をお許し下さい。ただ、氏の演奏には感動したのには間違いありません。こんな貴重な音盤を誠にありがとうございました。
ヤナーチェクのオペラは素晴らしいですよね。全て大好きです。彼のオペラの重要な点は岡本さんのおっしゃる自然との共生などの他にやはり一つの狭い世界、コミュニティーの掟や常識に縛り付けられた女性の成長願望、脱走願望だと思います。また、それの裏返しである村の人々の温かさも。
ただ、一言言えるのは彼のオペラは巷の評価以上の作品だと言うことですよね。まだまだ僕もヤナーチェクのオペラに関しては一層の勉強が必要です。
マッケラスの死は実に残念です。
ロンドンで彼のタクトでモーツァルトのピアノコンチェルト20番とエルガーの1番を聴いたのが最初で最後の実演でした。正直、前半のモーツァルトはソリストが酷く印象は薄かったんですが後半のエルガーは80歳を超えた翁の演奏とは思えない程、きりっと締まった溌剌な快速演奏でした。まぁ、もう座って指揮していたので長くはないなといった感じでしたがやはり残念です。御冥福をお祈り致します。
あっ、それとカラヤンの振り間違いの件は恐らくローマの松の冒頭だと思います。振り間違いかどうかは良くは分かりませんがオケは完全にずれてます。
ただ、あの演奏は超超超弩級の歴史的熱演ですよ!是非、御覧になってみて下さい。あんなローマの松聴かされたら本当に他の演奏は聴けません。いくらムーティ、デュトワ、ガッティ、トスカニーニであってもです。まさかですが、ローマの松で泣けましたからね(笑)バリバリのオススメ盤です。

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雅之

おはようございます。
明日から2~3日仕事で日本を離れコメント出来ませんので、再コメントします。
まず、ベートーヴェンについて現時点での補足ですが、先日ご指摘の三重協奏曲(作曲1803~1804年)ハ長調作品56は、おっしゃるように交響曲第3番変ホ長調『英雄』作品55(作曲1804年)同様に、おそらくフリーメーソン思想の影響下にある作品でしょうね。「3」というキーワードで、もっと掘り下げたいです。
また『英雄』の変ホ長調は、単にホルンの吹きやすさを意識しただけではなく、『エロイカ変奏曲』作品35も変ホ長調
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%AB%E5%A4%89%E5%A5%8F%E6%9B%B2
で、フリーメイソンの調をこの時点で選んでいますよね。
また、『ウェリントンの勝利』との関連では、『国王陛下万歳』(イギリス国歌)による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78(1803年)や 『ルール・ブリタニア』による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79(1803年)のことも気になり、いろいろ調べているところです。
話は変わりますが、ふみさんのコメントでも相変わらず少しそうなんですが、どうもクラヲタの皆さんは、「同姓愛者」(同性愛者?)「被害妄想」「精神障害」「人格障害」といった言葉を差別意識丸出しで好んで平気で無神経に使用されるケースが目立ちますが、第三者が読むと非常に醜いです。私は「差別用語禁止」「言葉狩り」には強く反対しますが、「差別意識」については正義感が強く働きます。自分を「健常者」だと信じ切って社会的弱者を見下す人ほど救われない人はいないと思っているからです。「ネトウヨ」が真の右翼とは似て非なるもの、というのと同じような意味なのかもしれません。そんなにおかしい人がお嫌いだったら、「頭のおかしな作曲家や、頭のおかしな演奏家ばかりの集まりであるクラシック音楽」のファンなんて、今すぐ卒業したら?と思うんですが・・・。
誰にでもある、「個人的な好き嫌い」と「差別発言」は、別次元の問題です。
また、単に好き嫌いだけの論議なら、自分ではプレー経験の全くない、野球やサッカーのファン、あるいは秋葉原のAKBヲタの話と何ら変わりません。むしろ、野球やサッカーのファンと話をしているほうが、勝ち負けがはっきりしているので、誰の目にも公平で健全だし、AKBヲタの方が、変なスノビズムやプライドがないぶん、好感が持てます。
少なくとも、私はクラシック音楽だけが趣味でなくて本当に救われました。

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岡本 浩和

>ふみ君
おはよう。
こちらこそ先日は長い時間ありがとう。
風邪までひかせてしまったようで失礼しました。
あの「悲愴」は一般市販されていないものであると同時に未編集の録音から加工されたものなのでごく一部のファンしか耳にしていない(もちろん実演では2000人ほどが聴いてますが)貴重品なので大事にね(笑)。
>やはり4楽章だけは未だに気持ち悪くて聴けません。
>死や諦観の境地でしょうか?僕には4楽章はどうしてもただの同姓愛者の被害妄想世界としか思えません。
これはね、もう少し大人にならないとわからない世界かもしれません(笑)。というのは冗談として、ご存じのように第4楽章は一般的に「アダージョ・ラメントーソ」で演奏されているけど、作曲者の自筆譜では「アンダンテ・ラメントーソ」だったという事実があるよね。それに初演の数日後にチャイコフスキーが突然死しているというのもいろいろと説がありつつも、少なくとも自分の死を意識して「悲愴」を書いたのではないと僕は思うんだよね。
ところで、ふみ君はロンドンでマッケラスのエルガーを聴いてるんだね。羨ましい。さぞかし素晴らしい演奏だったと想像します。
じゃあ、同性愛者の被害妄想世界かといえば、それも断じて違うと。(ホモセクシャルであることが結果として彼を自殺に追いやったという説が今では真相とされている)
ベートーヴェンの生涯同様チャイコフスキーの生涯にも「謎」は多いけれども、彼はまだまだ生きるつもりだったと僕は感じるのです。この第4楽章は、「死の諦観」どころかベートーヴェンの第9にも通じる「生命の喜び」なのではないか、なんて最近僕は考えます。いかがでしょう?
僕としてはマーラーの9番のような「死」を意識しての音楽では決してないと思っています。
>カラヤンの振り間違いの件は恐らくローマの松の冒頭
あ、そうか、そうか。僕はこの映像は観ていないので機会があったら観てみます。ありがとう。
>まさかですが、ローマの松で泣けましたからね
なるほど、それじゃあ、余計に観ないと・・。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ベートーヴェンのことについては「秘密諜報員~」を読んで以来いろいろと考えさせられています。何だか根底から覆されそうですね。ご紹介の楽曲についても非常に興味深く、僕も久しぶりにベートーヴェンのそのあたりのマイナーな曲を繰り返し聴いてみたくなりました。
ちなみに、出張ご苦労様です。海外はどちらですか?

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ふみ

>岡本さん
はい、音盤については一生大事にしたいと思います。非売品ですから。
なるほど、生命への喜びですか。面白いですね。僕もチャイコは間違いなく死ぬつもりで終楽章を書いたとは思えないですし、一般的解釈である死への予兆とか予感を表したかのような演奏には疑問を覚えます。
岡本さんの解釈で聴いてみるとまた新しい何かが発見できるかも知れませんね。
ありがとうございます。
>雅之様
ご無沙汰しておりました。雅之様とは新宿のカレー屋でお会いした以来ですね。また一度お会いしたいものです。
チャイコの終楽章に対するコメントは誤解を与えてしまったようで申し訳ございません。
僕は同性愛者に対して別に差別的感情があるとかそういった意味で申し上げたのではございません。実際、友人の中にもそういった方はいますし、ブルックナーなんて小児愛ってことを知りながらも愛しています。シューマンの歌曲だって女性的ですし。
ただ僕が申し上げたかったことはチャイ6の終楽章はチャイコが
「俺はこんなに同性愛者だったって事で辛かったんだ。」
「俺の人生は誰よりも辛いものだったんだ」
「ほら、この斬新な構成を見てみろ。この曲、深いだろ。」
「俺はこんなにも感受性豊かで美しい音楽が書けるんだぞ。」
みたいに単なる彼自身の同性愛に対する嫉妬や問題意識、被害妄想を言ってるように聴こえるってことなんです。重ねて申し上げますが別に僕は同性愛や小児愛などの音楽は嫌いではありませんし、ましてや差別感情など持っておりません。
後一つだけ。雅之様は
>そんなにおかしい人がお嫌いだったら、「頭のおかしな作曲家や、頭のおかしな演奏家ばかりの集まりであるクラシック音楽」のファンなんて、今すぐ卒業したら?と思うんですが・・・。
とおっしゃってますが、これには賛同しかねます。理由は2つ。
1つ目はまずクラシック音楽=頭のおかしな作曲家や頭のおかしな演奏者とはこれは酷くありませんか?もちろん、多くの芸術家は一癖も二癖もあるということに関しては事実だと思いますがイコール関係で結ぶのはこれこそ差別的だと思いますがいかがでしょう?
2つ目はクラシック音楽を聴く意義やクラシック音楽に求めるものは人それぞれです。少なくとも僕は頭のおかしな音楽や頭のおかしな演奏を聴きたいがために聴いているのではありません。それはあくまで雅之様御自身の価値観であって他人に言える事ではありません。ただただヒーリング効果で聴く人だっているでしょう。ただただ優雅な気持ちになりたくて聴く人だっているでしょう。それでも良いじゃないですか。音楽に求めるものや捉え方は人それぞれだと思いますがいかがでしょうか?
僕も趣味のクラシック音楽に求めるもの、バドミントンに求めるもの、アニメやマンガに求めるもの、映画に求めるもの、絵画に求めるもの、旅行に求めるものはそれぞれ微妙に異なります。
例えばバドミントン。僕は中学の時はそれこそバリバリの体育会系で年に3日くらいしか休みもなくスパルタ先生の下で厳しい練習をしていました。そのお陰で全国大会に出場することが出来ました。そういった環境だった為その頃はバドミントン=勝たなきゃ意味の無いもの、だと思ってました。しかし、高校や大学で多くの選手と交流する中でバドミントンに求めるものなんて人それぞれで良いんだなと思える様になってきました。僕はただの遊びや痩せる為にプレイしている人がいても
「バドミントンは勝ちたいと思う人しかやっちゃ駄目なんだ。そんなに生温いスポーツしたいならテニスでもやってろ。(テニスはあくまで一例です)」なんて言えません。
少し分かりにくいですが結論としてはクラシック音楽に求めるものは人それぞれだということです。
長文・駄文、失礼致しました。

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雅之

>ふみ様
こんばんは。また久しぶりにお会いしたいですね!
私へのコメントありがとうございます。
もう疲れるし同じことは言いたくないので下の日の別な方とのコメント欄でのやり取りを読んでおいてください。
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-463/#comments
クラシック音楽聴く趣味、これからも頑張ってください。

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雅之

>ふみ様
あっ、それと言い忘れたけど私が食って掛かって喧嘩売っているのは、ふみさんだけじゃないから安心してね。岡本さんには、このコメント欄で過去ふみさんに対するより何十倍も文句言って食って掛かってるよ(笑)。
じゃあね。

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ふみ

>雅之様
あっ、一応このブログに関しては毎日拝見させて頂いてますので雅之様のご紹介された記事も目を通しました。
>あっ、それと言い忘れたけど私が食って掛かって喧嘩売っているのは、ふみさんだけじゃないから安心してね。岡本さんには、このコメント欄で過去ふみさんに対するより何十倍も文句言って食って掛かってるよ(笑)。
もちろん、わかってますよ(笑)いつも、雅之様の鋭いご指摘などから色々と学ばせて頂いておりますから。

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