ジャン=ギアン・ケラスのブリテン無伴奏チェロ組曲集(1998.3録音)を聴いて思ふ

「自己責任」というワード。
すべてが関係の中にある以上、何事もその場の状況に左右されるゆえ、すべては自分だけの責任ではないという矛盾。意識せずとも自分が選んでいるのだということを忘るるべからず。

舞台にたった一人であるという恐怖。
しかし一方で、すべては自分次第だという喜び。
二元の世界にあって「陰陽」は一体だということが、そういうところからもわかる。

5年前、東京オペラシティコンサートホールでジャン=ギアン・ケラスのブリテンを聴いた。
舞台上で、一人孤独にスポットライトを浴びるチェリストに、僕は無限の愛を感じた。その、色香溢れる音色のことを僕は生涯忘れない。

ベンジャミン・ブリテンが、盟友ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのために創作した作品たちは、ブリテンの作品中特に神々しい、何より内省的な音楽だ。それゆえに、聴く者に与える印象は非常に直接的であり、また中性的だ。

精一杯チェロの曲を整えた。少なくとも、いじるのはやめなければならない。イモ(イモージェン・ホルスト)に弾いて聴かせたらとても感動していた&まるでお告げのように、弾き終わるや否や電話が鳴った&“スラヴァ”がパリからかけてきたんだ。&片言の(ひどい片言の)ドイツ語で、興奮して舞い上がった会話をした。でも、彼はいい人だ。回線が悪く&ひどいドイツ語だったのに、熱狂と興奮が伝わってきた。
(1961年1月17日付、ピーター・ピアーズ宛)
デイヴィッド・マシューズ著/中村ひろ子訳「ベンジャミン・ブリテン」(春秋社)P172

《チェロ・ソナタ》にまつわるエピソード。その後、ブリテンはロストロポーヴィチのために5つのチェロのための曲を生み出した。中でも無伴奏のそれは、バッハの組曲以来最も重要な作品であろうと思う。

ブリテン:
・無伴奏チェロ組曲第1番作品72(1964)
・無伴奏チェロ組曲第2番作品80(1967)
・無伴奏チェロ組曲第3番作品87(1971)
ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)(1998.3録音)

一言でいえば、清廉、無垢な魂の赤裸々な阿鼻叫喚。厳しい、何とも厳しい。
しかし、音楽の装いは極めてわかりやすく、しかも艶やかなのである。

3つの歌に、それをつなぐいわば間奏曲の、色合いの変化と、同時に協調の優れた第1番。第5楽章ボルドーネの深い慟哭と、続く第6楽章モト・パーペトゥオ・エ・カント・クワトロの無窮動風音楽に僕は歓喜する。
あるいは、第2番第1楽章デクラマート冒頭は、まるでマーラーの「復活」交響曲第1楽章アレグロ・マエストーソ冒頭を髣髴とさせる旋律で、流れるような哀感に痺れ、涙を禁じ得ない。何より第2楽章フーガ、そして第5楽章チャッコーナは、古い形式を借りてのブリテンの革新。天才だ。
最美はやっぱり10もの楽章を持つ第3番だろうか。
不思議なのは、終始「単色」調を崩さないこと、否、それが崩れないこと。
確固とした構成の下ゆえだろう、奏者の独自の解釈を許さない堅牢とした枠の中で、モノクロながら無限の自由を謳歌するチェロ。若きケラスは、ブリテンの譜面を信じ、そしてチェロという楽器を愛し、ただひたすら音楽を編んで、祈る。

そしてイノックは潔く、晴れやかな気持ちで
この別れの朝を迎えた。愛するアニーの不安のすべては、
それが愛するアニーの不安であることを除けば、
彼にとって笑い事にすぎなかった。
だが、勇敢で信心深いイノックは、床に跪いて頭を垂れ、
「人間の心の中の神性と、神の中の人間性がひとつになる」
という神秘的な教えを信じて、たとえ我が身はどうなろうとも、
どうか妻と子供たちには神の祝福がありますようにと祈った。
アルフレッド・ロード・テニスン/道下匡子訳「イノック・アーデン」(愛育社)P16-17

神性と人間性の一体の体現。
ブリテンのチェロ作品に通底する音調は、いわばそういうものかもしれない。

 

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