フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのシューベルト「未完成」交響曲(1952.2.10Live)を聴いて思ふ

brahms_3_schubert_8_furtwangler_bpo316完全無欠の完成品と言っても過言でない「未完成」作品、フランツ・シューベルトのロ短調交響曲D759。
仄暗く悪魔的雰囲気を醸すフルトヴェングラーの真骨頂。特に、実演におけるテンポの伸縮、深沈たる音調と解放に向かって進む音楽の有機性と、轟くティンパニの絶叫に舌を巻く。金管群の咆哮、弦楽器群のうねりも実に意味深い。
第1楽章アレグロ・モデラートの、何より重厚で暗澹たる第1主題と明朗で美しい第2主題の対比の妙。この二面性こそがシューベルトの「歌」の発露であり、フルトヴェングラーの再生の肝なのである。

「未完成」交響曲と同年に書かれた「ぼくの夢」という自叙伝断片。

ぼくは沢山の兄弟姉妹のなかの男の子だった。お父さんも、お母さんも、良い親だった。いつかお父さんはぼくたちを遊園地につれていってくれた。兄さんたちは大いにはしゃいだけれど、ぼくは悲しかった。それからお父さんはぼくに、素敵なご馳走を、喜んで食べろと命令した。でもぼくはそれができなかったから、お父さんは憤って、ぼくに消えてうせろといった。
前田昭雄著「カラー版作曲家の生涯シューベルト」(新潮文庫)P93

幼少時の両親からの「否定」という心の傷は後々まで影響を与える。シューベルトの哀しみは決して癒えることがなく、そのことは音楽作品にも投影される。
父に恐怖を抱きながらも、同じ断片の中で母を亡くした哀しみをうまく表現し、その上で、一見感謝と思える父への無意識の抵抗が刻印されるところがまた興味深い。

ぼくのお父さんも、和らいで愛情深くみえた。お父さんはぼくを抱いて涙を流した。しかしぼくの方がもっと泣いたのだった。
~同上書P97

シューベルトの哀しみと寂しさの情は真に深い。そして、その深層をことのほか上手に表現したのがフルトヴェングラーその人だった。

・ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90(1954.4.27Live)
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調D759「未完成」(1952.2.10Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

第2楽章アンダンテ・コン・モートの素敵な憧憬!!音の一粒一粒に優しさと柔らかと和やかさが交差する。これほどに平和な音楽があろうか。そして、これほどに緊張感に漲る音楽があろうか。
ショーペンハウアーをひもとく。

音楽はほかのあらゆる芸術からまったく切り離された独自なものである。音楽は世界にある存在物のなんらかのイデアの模写や再現とは認められない。それでいて音楽はまことに偉大なまた並外れてすばらしい芸術であり、人間のいちばん奥深いところにきわめて力強く働きかけてくる。音楽は人間のこのいちばん奥深いところであたかも普遍的な言語―この言語の明瞭さときたら直観的世界それ自身の明瞭さにもまさるくらいだが―ででもあるかのように、人間によって全面的にまた奥深く理解されるのである。
ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅱ」(中公クラシックス)P203-204

まるでフルトヴェングラーのシューベルトを表すかのようなショーペンハウアーの言に膝を打つ。他のどんな演奏とも異なる、そして他を冠絶する「未完成」交響曲。それゆえにやり過ぎという感もあり、賛否両論だろうが、僕にとってはこの暗さが堪らない。

最晩年、死の7ヶ月前のブラームスヘ長調交響曲も然り。何と澄んだ純白のブラームスであることか!
無理のない脱力の表現。これ以上は、ない。

 

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