クリティカル・シンキング

brahms_bernstein_gould.jpg表参道のとある大学で、1,2年生向けのキャリア・プラン講座として「ロジカル・シンキング&クリティカル・シンキング」の授業を担当した。今日から毎週水曜日、4回の連続講座となる。まだ20歳そこらの学生にとって論理的思考、批判的思考というのは少しハードルが高いかとも思ったが、さにあらず。自発的に発表も出るし、その答、対応もなかなかのもの。見くびっちゃいけない。

批判的思考というと、言葉通り、物事を否定的批判的に観ることだと思っていた学生が多いが、そこは訂正した。「批判的」というより「多角的」視点が重要なのだと。一つの事柄を360度様々な角度から見て、理解、承認できる能力は大切だ。十人十色。10人いれば10通りの答がある。人間関係においても、多角的なものの見方ができない人は妥協をせざるを得ない。妥協すればストレスが付きもの。一方、クリティカル・シンキングを会得していれば他者を承認する幅が広がる。よってストレスなく人間関係の幅が広がるということだ。

とはいえ、人は誰でもそれぞれ自己主張を持つ。「これだけは」という譲れない点もある。そこをどう調整し、鷹揚に対処するかが「人間の幅」につながる。それこそまさに「人間力」なり。

ところで、ここに1枚の有名な実況録音盤がある。物議を醸した音盤だが、そこで奏でられる音楽は美しい。そして何より、50年近くを経た現代、あらためて聴いてみて実に違和感がまったくない。

1962年4月6日、ニューヨークのカーネギーホールにおいて、その問題の歴史的コンサートは開催された。珍しくも演奏前の指揮者の特別なスピーチまで収録されている。

レナード・バーンスタイン:(拍手)心配しないで下さい。グールド氏はちゃんと来てますから(聴衆笑う)。間もなく登場するはずです。・・・(中略)これから皆さんがお聴きになるのは、言ってみればかなり正統的とは言いがたいブラームスのニ短調協奏曲です。それは私がこれまでに聴いたことのあるどの演奏とも全く違うもので、テンポは明らかに遅いし、ブラームスが指示した強弱から外れている部分も多々あります。こんな演奏は想像したこともありませんでした。実は私はグールド氏の構想に完全に賛成というわけではありません。・・・(中略)そこで、先程の疑問を繰り返しますが、私はなぜこの曲を指揮するのでしょうか?なぜ、ちょっとしたスキャンダルは覚悟の上で、代わりの独奏者を立てるなり、補助指揮者に振らせるなりしないのでしょうか?それは、頻繁に演奏されるこの作品を新たな視点から見るということに私が魅せられ、喜びを感じているからであり、さらには、グールド氏の演奏には、驚くべき新鮮さと説得力をもって迫ってくる瞬間があるからであり、3つ目の理由として、思考する演奏家である類い稀なアーティストから、私たちは誰でも必ず何かを学び取ることができるからなのです。・・・(後略)
~当該CD解説書

素晴らしい!まさにクリティカル・シンキング!自身の考えに固執することなく、冒険心をもってチャレンジする壮年期のレニーの気概すら感じさせられる名前説&名演奏!興味深いのは、「テンポは明らかに遅いし、ブラームスが指示した強弱から外れている部分も多々あります」と言っておきながら、20数年後のツィマーマンとの録音の方が第1楽章を除いて(時間を意識せず聴く限りにおいて違いはほとんどわからないくらい)明らかに遅いということ。菊地成孔氏+大谷能生氏の「東大アイラー」に書かれていたが、所詮楽譜というのは記号に過ぎず、作曲者の意図をすべて盛り込めないということもこの件からも明らか。時間芸術である音楽・・・、真に深い。

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15
グレン・グールド(ピアノ)
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団(1962.4.6Live)

この音盤には、さらにグールドが翌年2月に答えたインタビューも収録されている。それがまた実に示唆に富む。

グールド:コンチェルトという発想には、もちろん非協調的な感覚、(いわゆる)名人芸をひけらかしたいという感覚も含まれている。・・・去年やったあのブラームスの協奏曲は、決して特別に異例の演奏というわけではなかった。ただし、一つだけ異例だったのは、テンポと強弱のバランスを普通よりも厳密に決めたことでしょう。それによって強弱やテンポの面での誇張がより少なくなった。・・・もっとずっと緊密に一体化された演奏になった。・・・
一方でレニーの方は、オーケストラとピアノの対立関係を守るためにもっとはっきりしたコントラストが必要だし、強弱もテンポももっと大きく変化させるべきだと考えていた。・・・(後略)

勉強になる。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ご紹介の演奏、私が生まれた日(1962年1月5日)から、ほぼ3ヶ月後の演奏で愛着はありますが、バーンスタインによるスピーチが有名なだけで、その演奏自体は異端でもなんでもなく至極真っ当な解釈ですよね。この程度で異端ならアファナシエフやポゴレリッチはどうなるのでしょうか? ツィマーマンによるショパンのPコンは? 「チャイコフスキー自筆譜による世界初録音!」と鳴物入だった、何だかフェドセーエフ指揮「悲愴」のCDを思い出します。普通と何も変わらんやん!! 
朝日新聞の「天声人語」は、深代惇郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BB%A3%E6%83%87%E9%83%8E
以来、もう何十年も共感を持って読んだことはありませんでしたが、昨日(11月10日付)では、珍しくいいことが書いてありました。
「LOVE(ラブ)」と「LIKE(ライク)」はどう違うのか。何で読んだか思い出せないのだが、ある説明に感心して書き留めたことがある。LOVEは異質なものを求め、LIKEは同質なものを求める心の作用なのだそうだ▼辞書的に正しいかどうかはおいて、なるほどと思わせる。言われてみれば「愛」には不安定な揺らぎがあり、「好き」にはどこか安定がある。その安定感は、自分と同じものを相手に見いだした心地良さかもしれない――。そんなあれこれを、群馬のいじめのニュースに思い巡らせた▼自殺した小6の少女は、仲良し同士が集まる給食の時間に独りで食べていたそうだ。報道を機に、東京の声欄に「好きな子グループ」への意見がいくつか載った。都内の主婦は「好きな子同士で固まっていないとみじめなんだ」という娘の胸中を記していた▼「同調圧力」という心理学の言葉を、最近よく耳にする。集団の中で多数派に合わせるのを強いる空気のことだという。この「力」が、子どもや若者の間で強まる傾向らしい▼子らは仲間外れを恐れて、用心深くグループに合わせる。ベネッセの調査によれば小学男女の半数は「話を合わせている」そうだ。自分を安全地帯に置く言動と、異質な者の排除は、意図はなくとも表と裏の危うい間柄にある▼同調圧力の強まりは、はじかれた者への想像力を殺(そ)ごう。冒頭の定義に従うなら、ひいては「愛」を失うことにもなる。LIKEを悪者にする気はないが、用心はいる。子どもだけではない。大人はなおのことと胸に留めたい。(公開サイト asahi.comより)
http://www.asahi.com/paper/column20101110.html

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
おっしゃるとおりです。
この演奏、バーンスタインのスピーチ部分こそが聴きもので、演奏そのものはびっくりするくらい「普通」ですよね。
ところで、ご紹介の「天声人語」、僕も昨日興味深く読んでおりました。日本の場合、そもそも歴史的に「村八分」という掟があったことが同調意識を強める原因の一端になっているのではないかとも思いました。「自分と同じものを相手に見いだした心地良さ」というのは共感にもなり、また傷のなめ合いにもなるという危険性を孕みますよね。そうすると「個性」って一体何なんだろう?って考えさせられます。
ちなみに、深代惇郎氏の「天声人語」は僕も好きで昔文庫本で読んでいました。懐かしいですね。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » グレン・グールド~ティム・ペイジとの対話

[…] 何のおまけだったか今となってはもはや記憶にないのだが、僕の手元には当時新進気鋭の音楽ジャーナリストだったティム・ペイジがグレン・グールドに「ゴルトベルク変奏曲」の新録音についてインタビューをしたCDがある。1982年8月にトロントで収録されたもののようだからグールドが亡くなる2ヶ月ほど前の、おそらく彼の肉声が聴けるほとんど最後のもののようである。 そういえば今月はグレン・グールドが世を去ってちょうど30年という節目であることを思い出し、これまできちんと聴いたことがなかったので、50分に及ぶ録音だけれど、この際ゆっくりと聞いてみた。 何よりグールドの、張りのある元気な声と会話が明瞭に耳にでき、とても数ヶ月後に、しかも50歳という年齢で亡くなるとは思えない。それに、「ゴルトベルク」再録音に踏み切った秘密や、例の物議を醸した有名なバーンスタインとのブラームスのコンチェルトの演奏について自ら言及して、その理由を明らかにしているところが興味深い。 […]

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