目に見えない「つながり」・その2

schumann_lipatti_karajan_po.jpgここのところマラソン人口が増えているそう。経験がない者にとっては孤独な自分との闘いにしか思えないが、はまっている人間に言わせると、走ることで「自己肯定感」が養え、「達成感」が得られるのだと。しかもマラソンこそは究極のチーム・スポーツなのだという。一瞬、「えっ?!」と思わせられるが、その理由を聴いてみると「なるほど」と納得させられる。

自分との闘いについて言えば、継続できるポイントは良い先生につくことと良い仲間に恵まれること。孤独な闘いに見えているものほど、実は「関係」を重要視する。互いに励まし合い、共に頑張る仲間がいることを意識することが、タイムを縮めるための大きな後押しになるらしい。それこそ「目に見えないつながり」が自身を成長させるということのようだ。

スポーツがからっきし苦手な僕でも、走ることならできそうかも。壁にぶつかるからこそそれを乗り越えたくなる。そして乗り越えたときの喜び、それは何物にも代えがたい、掛け替えのない体験だろう。

ところで、ロベルト・シューマンとクララ・シューマンの作品を比較した時、明らかにクララの方に才能を発見すると妻は言う。(もったいない)しかし、当時の社会的情勢、あるいは女性の立場という点から考え、クララは作曲家として立つことは諦めたし、何よりロベルト自身がそれを拒否した。

「まず第一に、もし夫を満足させたいならば、新妻は料理と家事ができなければならない・・・次に、新妻はすぐに大旅行なぞしてはいけない。それどころか、健康に気をつけなければいけない、とくにこれまで未来の夫のために1年中働き、献身的に尽くしてきた新妻は・・・第四に僕たちはたくさん散歩しよう。僕は君に子どもの頃僕が殴られた場所はすべて教えてあげよう・・・第八に、作曲はすべて僕がし、君は演奏する」(1839年3月16日付)~小林緑編著「女性作曲家列伝」

吃驚するような「関白宣言」!深読みかもしれないが、やっぱりロベルトはクララの才能に嫉妬したのだと思う。クララのわずかに残された楽音を聴いてみても、素人の僕でさえ魅力を感じるのだから、ましてやプロのピアニストからすると尚更なのだろう(「作曲は僕がし、君は演奏する」。役割分担としては確かにわかるけど・・・)。

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
ディヌ・リパッティ(ピアノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団

クララはどんな演奏をしたのだろう。少なくともクララへの愛を感じさせてくれる、そしてクララが愛を込めて演奏したことが容易に想像できる音楽。シューマンの数ある作品の中でも1,2を争う、まとまりを見せる、調和のとれた音楽だと僕は思う。ちなみに、ウルトラセブン最終話で、モロボシ・ダンがアンヌ隊員に自身の正体を明かすシーンの直後に奏される音楽がシューマンのこのコンチェルトであり、しかも当該演奏であることは有名な話。

精神的に決して強いとはいえないロベルトは常に自分自身と闘っていたのではないか。そして、それを真摯に支える妻クララは、「目に見えないつながり」を感じながら、自分を捨て、最後まで夫を応援し続けたのではないか。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
先日の小山実稚恵さんの宗次ホールでのリサイタルでは、私としては、当然後半のシューマン「交響的練習曲」に期待していたわけですが、思いの外不調な演奏で、率直に言って期待外れでした。あれほどラフマニノフやショパンの難曲を、世界最高峰の音楽性とテクニックで聴かせてくれた彼女がこんなに崩れるとは・・・、意外でした。田部京子さんも2007年の浜離宮朝日ホールでの演奏も、Etüde X (Variation VIII) で大きく踏み外し、一瞬肝を冷やしましたが、今回の小山さんの演奏は、それよりももっと全般的に不調でした。ギレリス晩年の東京ライヴのCDや、キーシンの1回目のライヴCDも技術的には悲しい演奏でしたし、改めてこの曲はプロにとっては恐ろしい曲なんだと認識しました。そうしてみると、伊藤恵さんや小林五月さんは、シューマンのスペシャリストと言われるだけのことはあるなあと、しみじみ感じています。この二人の、実際のライヴで聴けたこの曲の演奏、理解度も独創的解釈も安定感も、世界に誇れると信じて疑いません。
>ロベルト・シューマンとクララ・シューマンの作品を比較した時、明らかにクララの方に才能を発見すると妻は言う。
それは、おっしゃるとおりかもしれませんね。
>吃驚するような「関白宣言」!
女性の社会進出という観点では、不幸な時代ですよね。それを最も如実に感じさせるのは、シューマン作曲の、アデルベルト・フォン・シャミッソーの詩による連作歌曲集「女の愛と生涯」ですね。あれを心底共感して歌える女性歌手なんて、今の世にいるのかなあ? いれば、よほど能天気な女か世界遺産か人間国宝ものです(爆)。
7.わたしの心に、わたしの胸に
わたしの心に、わたしの胸に抱きかかえている、
わたしの喜び、わたしの楽しみよ!
幸福は愛、愛は幸福、
わたしはそう言ったし、取り消しもしない。
恵まれすぎた様に思えるし、
今だって幸せすぎるほど。
乳を吸わせる女だけが、子供を愛し、
栄養を与えられる女だけが、
ただ母だけが
愛と幸せが何か分かる。
ああ、あの人は何て可哀想なのかしら、
この母親としての幸せを感じられないなんて!
可愛い、可愛い天使よ、
わたしを見て笑ってるのね!
(下のサイトの、素晴らしい対訳から引用させていただきました。感謝します)
http://www.damo-net.com/uebersetzung/schumann/op042/all.htm

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
そうでしたか、小山さんのリサイタルはそんな様子だったんですね。まぁ、どんなピアニストも人の子、調子の良し悪しはあるでしょうし、楽曲の得手不得手もあるでしょうしね。またの機会に期待ということでよろしいのではないでしょうか?残念ながら、僕は雅之さんほどシューマンについて詳しくなく、特に交響的練習曲をそれほど聴き込んでいないので、何とも云々することはできないのですが、雅之さんをこれほどまでに駆り立てる魅力が何なのか知りたいものです。説明など不要、ともかく何度も聴いて感じるものなんだと思いますが。
>あれを心底共感して歌える女性歌手なんて、今の世にいるのかなあ? いれば、よほど能天気な女か世界遺産か人間国宝ものです
いや、同感です。ご紹介いただいた歌詞は名訳ですね。ありがとうございます。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » メンデルスゾーン:スコットランド交響曲

[…] 最後のクライマックス場面でのリズミックなピアノによる序奏。 ウルトラセブンの最終回ではリパッティ&カラヤンによるシューマンの協奏曲が使用されているのはとても有名な話で、なぜあそこでシューマンなのかと昔は思ったけれど、なるほど繰り返し観るうち、今では無条件にあれなんだと納得する自分がいる。もはや文句のつけようがない。 […]

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