ワークショップZEROにおいても、企業研修においても、あるいは大学の講義にしても、受講するに当たっての大切な姿勢、心構えを僕は最初にお伝えする。大切なことはいくつもあるのだが、僕が一番重視しているのは、「自分以外の他者のために真面目に真剣に取り組む」ということ。自分が何かを学ぶためにお金を払い、時間を使って参加するのだから、ほとんどの人たちは基本的に「自分のため」に参加する。それが決して間違いだとは言わない。それでもその時間をより有意義なものにするには、ひとりひとりが「他人のため」に一生懸命臨む方がより効果的だと思うから。何のために成果を得るのか。何のためにがんばるのか。今この瞬間ベストを尽くすのは、周りの同僚や後輩で成果を得られていない人を援助するためといっても言い過ぎでない。人は誰しも他者を相互にサポートするために生きているのだと僕は常々思っている。身の周りの人たちに限らない。これから出会うであろうまだ見ぬ友や後輩もその相手になるだろう。
今の世の中、世知辛い。人と人とのつながりが極めて薄くなっているということはよく聞くが、「つながり」どころか「想い」すら薄くなっていることを知るにつけ愕然とする。
大学の講義で、300人超の学生を前に、納得のゆく就職活動のために自己分析やOB訪問など具体的に行動をとるよう示唆すると同時に、ともかく来年以降の後輩たちのためにひとりひとりが一生懸命就職活動に取り組むよう鼓舞した。何のためにがんばるのか。自分たちの後輩がOB訪問のために自分を訪ねてきたときに意味のあるアドバイスをし、親身になって学生の相談に乗ってあげるためなんだと口角泡を飛ばし語る。
真意が伝わっているかどうか、残念ながら確認できなかったが、就職課の職員に伺ったところ、最近は翌年以降のOB訪問を拒否する内定者が1割近くいるのだと。もちろん個人情報の流出を嫌がるということも理由のひとつとしてあろう。それにしても、・・・だ。
明日はまた他大学で午前と午後2本の講義を持つ。「人をサポートできるようになるために自分のことを一生懸命やりきれ」という僕のスタンスはやっぱり変わらない。
コンサートが1週間後に迫っているせいか、ショパンやシューマン、あるいはブラームスのことを頻繁に考えてしまう。結婚直前のロベルト&クララやショパンのこと、あるいは、1840年代、バッハ復興のため、シューマン夫妻やメンデルスゾーンが骨を折ったこと。書籍を片手に、当時を想像しながら彼らの音楽を聴くことはとても愉しい。2002年のルガーノ・フェスティバルからの1枚。
1839年に作曲されたメンデルスゾーンの三重奏曲はシューマンが絶賛した絶品。そして1864年に生み出されたブラームスのソナタはピアノ五重奏曲の編曲版。ロベルト・シューマンは既に亡く、ヨハネスの愛するクララへの内なる想いが反映する。ソロ活動をほとんどしなくなったアルゲリッチは何を思うのか。自分のことではなく、他者と交われる室内楽に比重を置くこと、あるいは後輩の指導。ひょっとすると彼女自身まったく意識しているわけではないのかも。なぜなら充分自ら愉しんで演奏しているから。でも、そういう彼女のエネルギーこそが周囲に喜びを与えるのだ。
今や老練という域のブラームスやメンデルスゾーンの音楽の何と颯爽として粋なことか!そして何より、聴いた後繰り返しもう一度聴きたくなる「愉悦感」。
おはようございます。
ジョルジュ・サンド、アルマ・マーラー、マルタ・アルゲリッチ、この3人の女性の生き様には共通したところがありますね。奔放な恋愛遍歴は確信犯的で、自信に満ちています。つまり大河ドラマの主人公的のようで堂々としていて、後ろめたいところがなく、潔くカッコいい、これこそ自立した女性の鑑です。
翻ってクララ・シューマンの生き方はどうでしょう? 自分の作曲の才能を殺し、献身的にロベルトを立てた?、そう、水木しげるの奥様(ゲゲゲの女房)みたいに・・・、不況でキャリア志向を捨てて、幸せな主婦として家庭に入りたがっている現代女性の心を、こちらもしっかりと掴むでしょう。
だが、待った、そのクララにいやらしくまとわりつくブラームスがいたじゃありませんか! 彼がいるから、淫靡で、お天道様に申し訳なく、後ろめたい、小市民の不倫話的な、「おままごと」みたいな、A型日本人的な、スケールの小さい話になっちゃうじゃないですか(笑)。
つまり、岡本太郎的に言うなら、「感情の爆発を、隠そう、隠そうとするところが、いやしい」ということ。「いやらしい」じゃなく「いやしい」。だからお天道様に申し訳なく、後ろめたい気分になる。ブラームスのクララへの愛は、尖閣問題での、官房長官や総理の優柔不断な対応みたいだ、隠そうとすればするほど墓穴を掘る(爆)。
いずれにしても、シューマン夫妻&ブラームス、ショパン&ジョルジュ・サンドの、どの恋愛にも、終焉が待っています。「東京ラブストーリー」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
の赤名リカと永尾完治の物語以上の、悲しい終焉が・・・。
「命くれない」
http://www.uta-net.com/user/phplib/view.php?ID=00713
のようにはいかなかったネガティブな悲恋から、今日の私達が学ぶべきことは、果たしてあるのでしょうか?
反面教師か・・・。
>雅之様
おはようございます。
いろいろな生き方があるものですね。
それが両極端な生き方だとしてもいずれも魅力的だと僕は思います。
>ブラームスのクララへの愛は、尖閣問題での、官房長官や総理の優柔不断な対応みたいだ、隠そうとすればするほど墓穴を掘る
いやいや、まぁ、許してあげてください(笑)。彼ほどマザー・コンプレックスの強かったであろうと作曲家はいないくらいで・・・。それを受け止めることができたのはクララくらいしかいなかったでしょうし。もっというならロベルトが亡くなった時点でクララは未亡人なわけで、誰と恋愛をしようがまったく自由な身なのですから・・・。
>どの恋愛にも、終焉が待っています。
ネガティブな悲恋とは本人たちは思っていないかもしれませんよ。それも後世の人間の後付かも。その瞬間が燃え尽きるほどのものであれば後は何でもいい、そんな岡本太郎的思考が特に芸術家には大事なのでしょうね。
それにしても「東京ラブストーリー」、懐かしいですね!
僕は原作派でしたが・・・。
>誰と恋愛をしようがまったく自由な身なのですから・・・。
だから、それは全然論点ではありません。クララへの愛をほのめかしてたくせに、それを変に隠そうとした行為が中途半端で、私の美学に反するんです。
まあ、この話では、私は宇野さんと連立政権を組めそうです(笑)。宇野さんも私も、基本的にポジティブ志向ですので(笑)。
>雅之様
こんにちは。
>クララへの愛をほのめかしてたくせに、それを変に隠そうとした行為が中途半端で、私の美学に反するんです。
あ、そうですよね。失礼しました。それは僕も同感です。
ただし、「いやしい」と言われても、言うに言えない、表に出そうに出せない理由があったのかもしれません。例えば、ヨハネスは言いたかった。でも、クララから執拗に止められていた。って考えられませんかね?
つまり、ブラームス側に原因があるのではなく、実はクララ側に理由があったのだと。父親に厳格に育てられたクララは男性と上手く付き合う術を心得ており、ロベルトの前では純真で従順な妻を演じました。しかしながら、作曲をさせてもらえなかったことに対してはやっぱり不満を抱えていた。
当時からおしどり夫婦として世間から認められ、どちらかというと社会的にはクララの方がより認知されていた状況から、シューマン夫妻のイメージを崩してはいけないという理性が彼女には常に働いており、本当は奔放に恋をしたかった、生きたかったけれども、どうしても隠れてやらざるを得なかった。
常に理性が働いている(働きすぎている)。クララがアルマと違うところはそのあたりです。クララの演奏を確認することはできないので、何とも言えませんが、残された作品を聴いていると僕にはそんなことが感じられます。それがまた魅力ではあるのですが。
とはいえ、ブラームスが「びびり」だってことには変わりありません。やっぱり、ブラームスはいやしいですかね?(笑)
では、ブラームスは「東京ラブストーリー」の永尾完治みたいだと、思い切り持ち上げておきましょう(笑)。
・・・・・・踊る大捜査線 – 『秋の犯罪撲滅スペシャル』で、織田裕二扮する青島俊作が調べているビデオのひとつとして本作(東京ラブストーリー)が登場。感情移入して見入る面々を横目に、青島は「何だかはっきりしない男ッスよね」と感想を漏らす。・・・・・・(ウィキペディア 5.7 その他 より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
>雅之様
こんばんは。
ブラームスはカンチですか!ありがとうございます。