グスタフ・マーラーは、1905年11月9日、ヴェルテ=ミニョン・システムというピアノ・ロールに録音した。100年以上を経た現在、ピアノ・ロールとはいえマーラー自身の演奏が聴けることはとても貴重だ。
当時の、ヴィレム・メンゲルベルク宛の手紙には次のようにある。
親愛なる友よ、《第五》は、それはそれは難しい曲です。今回ばかりは万全の予備練習をお願いいたします。さもないと恐るべきことになります!演奏が輝かしいものにならなければ、私は舌打ちで追い出されることでしょう。
もし歌曲をなさるおつもりなら—メッシェルトをご提案申し上げます。僕はこちらで一月にマーラー・アーベントを上演いたしますから、きっと喜んで歌うことでしょう。嘆きの歌と同じ晩がいいでしょうか、と申しますのも交響曲の後ではせいぜい序曲か、あるいは何かその類のものが適当でしょうが、それなら私一人きりで交響曲のプローベをすることができます。
(1905年12月初め、ヴィレム・メンゲルベルク宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P317
マーラーが公私ともに最も充実していた時代。そのせいか、彼自身が難しいという《第五》の第1楽章(ピアノ編曲版)は、「葬送行進曲」というタイトルを持ちながら、暗さを微塵も感じさせない実に輝かしい音調を示す。
マーラー・プレイズ・マーラー
・歌曲集「さすらう若人の歌」~第2曲「朝の野べを歩けば」
・歌曲集「若き日の歌」第2集第2曲「緑の森を楽しく歩いた」
・交響曲第4番~第4楽章(作曲者自身の編曲版)
・交響曲第5番~第1楽章(オットー・シンガー編曲版に作曲者自身が手を加えた版)
・歌曲集「さすらう若人の歌」~第2曲「朝の野べを歩けば」
・歌曲集「若き日の歌」第2集第2曲「緑の森を楽しく歩いた」
・交響曲第4番~第4楽章
・インタビュー集「マーラーの思い出」(1960年代初頃録音)
クラウディーヌ・カールソン(メゾソプラノ)
イヴォンヌ・ケニー(ソプラノ)
グスタフ・マーラー(ピアノ)(1992.6.21-22再生、録音)
自身が指揮するたびに改訂を重ねた作品は、逐一濃厚な表情を付され、音楽はますます磨きがかかった。その分、後世の演奏家たちは解釈の自由を制限されるが、マーラーの偏執狂的性格が確認でき、それゆえの浪漫なのだということが理解できるのだ。
マーラーががまんできなかったのは、無頓着な音、無頓着な音楽でした。ある時彼は、「音楽は激情的なものであり、自分もまたそうだ」と語りました。ある優秀なクラリネット奏者がおり、マーラーも彼の演奏をいつも気にかけていました。しかし、ある時マーラーは「音を小さく、小さく」と言い、それは前日には音が小さすぎるといった所でした。マーラーは声高に言いました。「それは雰囲気しだいなのです。すべては雰囲気です。昨日は大きすぎると思った音が、今日は小さすぎるように感じることもあるのです」と言いました。こういうところがマーラーの人間くさいところです。
(遠山菜穂美訳)
いわゆるデジタル人間でなかったマーラーの、執拗なまでの改訂作業と、それに伴う細かい楽譜の指示を杓子定規に解釈することは、決してマーラーの望むところではなかったということだろう。楽譜に指定された通りにただ演奏すれば良いというものはない。「すべては雰囲気だ」という(アナログ的な)言葉は、何事にも通じよう。
一つ一つの音が見事に囁きかける「さすらう若人の歌」第2曲。また、優しく美しい響きの「若き日の歌」第2集第2曲。特筆すべきは、交響曲第4番終楽章!文字通り「雰囲気豊かな」天国的調べ!!
何とも貴重な資料。
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