
マーティン・メイヤーは、最晩年のワルターにインタビューし、コロンビア交響楽団を指揮する様子を綿密に観察し、記事にしている(雑誌「ハーパーズ」)。
技術的正確さそのものを目標とすることについては、
「オーケストラ演奏の正確さという考え方は最近になってからのものです。それは、課題への取り組み方がどこかぼんやりしていることへの対処として必要なものでした。トスカニーニはそれを押し進めるのにすばらしい働きをしました。しかしいまや正確さが理想となっていますが、それは間違っています。」
「音楽は呼吸しなければいけません。そのことになじんで、大目に見るということもなければ。」
メイヤーはワルターの了承を得るべく1960年4月に原稿を送ったが、ワルターは自分の性格と音楽的抱負の描き方に強く反対した。彼は自分が、ワルターの言葉で言うと「演奏にずさんなところがあってもあまり気にする」ことはないとほのめかされていることに反発した。また、オーケストラ団員との関係の取り方の書き方も、彼の癇に障った。「『私の音楽家たちとの関係に見られる温和な友愛』のことを『彼らとうまくやっていくテクニック』と呼ぶことで、あなたは既に私のことを策に富んだ不誠実な人物とみています—それは私の本性とはかけ離れたものです。」
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P569-570
言葉が誤解を生む典型だ。感じ方は十人十色(本当は十人一色なのだが)、まして言葉の解釈もそれぞれだ。
おそらくメイヤーもワルターの真意を汲みとっていたことと想像される。
音楽も同様。
楽譜から指揮者、演奏者が何を感じ、何を読み取るのかは他人は感知し得ないこと。ならば、すべての演奏、録音を云々するのはそれぞれの勝手であり、まさに独断そのものなのだから、それに対しても誰も云々することはナンセンスというものだ。
個人的にはブルーノ・ワルターは(本人の自覚通り)真に慈愛の人だったとみる。
それは彼の創造する音楽を聴けば明快だ。
例えばドヴォルザーク。「新世界」交響曲の冒頭序奏から、言葉にならない「悲哀」と「憧憬」が感じられるが、それはおそらく祖国を追われ、アメリカへの亡命を余儀なくされたワルターの、新世界から見た欧州への慈悲であり、またこの録音を聴くことになるであろう世界中の音楽ファンに向けてのヒューマニスティックな最後の慈愛のメッセージだったのではなかったかと僕には思えるのである。
1961年1月から3月まで、ワルターはコロンビア交響楽団との最後の録音に余念がなかった。彼がテープに入れた大作には、マーラーの交響曲第1番と第9番、ドヴォルザークの第8番とブルックナーの第7番があった。マーラーの2曲の録音は記念碑的なものだ。
~同上書P570


また、病を押しての最後の録音群の素晴らしさは、言語を絶するものだ。
同じくドヴォルザークの第8番など愉悦に溢れる屈指の名演であり、人類の至宝といえる名録音だ。
ドヴォルザーク:
・交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」(1959.2.14, 16 &20録音)
・交響曲第8番ト長調作品88(1961.2.8 &20録音)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
いずれの録音も(小編成のオーケストラゆえか)透明な響きが、ワルターの純粋な心を投影しているようでそれだけで感動的。
