エマーソン弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ第14番&第15番(1994録音)を聴いて思ふ

伝えることは分かち合うことであり、分かち合うことは、すなわち手放すことである。
人は実際には死なない。「死」という幻想を解放することで、人は本来の自由を取り戻す。

ドミトリー・ショスタコーヴィチの最晩年の弦楽四重奏曲。高度なスキルに基づいて生み出された崇高な作品の内側は何と「生」に溢れることか。いかにも「死」に囚われているようで、そうではないのだと僕は思う。この人の音楽は希望の中の希望。

弦楽四重奏曲第14番嬰ヘ長調作品142。
音楽は間違いなく深刻だ。しかし、長調のそこはかとない明朗さが息づく第1楽章アレグレットは、作曲者のアイロニーに満ちるピエロ的音調(やはり「生」だ)。ここには舞踊があり、呼吸がある。第2楽章アダージョの虚無、アタッカで続く終楽章アレグレットの冒頭ピツィカートの喜び。感情が弾け、うねる。

エマーソン弦楽四重奏団のアンサンブルは実に秀逸。混じり気がない。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第14番嬰ヘ長調作品142(1972-73)
・弦楽四重奏曲第15番変ホ短調作品144(1974)
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ヴィオラ)
デイヴィッド・フィンケル(チェロ)(1994.7&8録音)

あるとき、ショスタコーヴィチは「死」を受け容れたのだと思う。すべての楽章がアダージョで、しかもアタッカで連なる第15番変ホ短調作品144第1楽章「悲歌」の静かな爆発。暗澹たる音調の中に沈みゆく快感。人生に途切れはないのである。流れる悠久の時間。続く第2楽章「セレナーデ」の天才的閃き。冒頭スフォルツァンドは幾分甘い気もするが、これこそ「死の受容」の証し。あまりに劇的な第3楽章「間奏曲」を経て、第4楽章「夜想曲」の、文字通り夢見心地。そして、第5楽章「葬送行進曲」は、「エロイカ」交響曲の木霊。自身を「英雄」と見立てたのか、ここでショスタコーヴィチはそれまでの自分を葬り去った。終楽章エピローグの無窮動は作曲者の最後の足掻きか。

イリーナ夫人の後年のインタビューをひもとく。

―あなたご自身は回想録をお書きになるつもりはありますか?

ありません。回想録は、およそどのようなものでも、完全に正確であることは期待できないからです。結局、不正確な資料を一つ付け加えることにしかならないでしょう。

まさに!妻といえど他人。音楽家は音楽で自らを語るのである。
エマーソン弦楽四重奏団の清澄な音色!何という美しさ。

 

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