
衝撃の歌劇「モーゼとアロン」。
ピエール・ブーレーズの新しい録音はとても素晴らしい演奏だけれど、一層キレがあり、刺激的な演奏が旧い方の録音だ。ここには尖鋭的なブーレーズがある。
シェーンベルクの失敗の主要な原因は、セリーの原理自体によって生み出された厳密な意味でのセリーの諸機能に対する甚だしい無知にある。無知ではないまでも、それらの機能は、有効であるに至らない萌芽的な状態で推測されている。したがって次のように言いたい。つまりセリーは、シェーンベルクにおいて、作品の意味的な統一性を保証するひとつの最小共通分母としては機能しているが、そのようにして獲得された言語上の諸要素は、セリーに無縁な既存の修辞法によって組織化されている。内在的な統一性を持たない創作活動の挑発的な非明証性が明らかになるのはその点においてであり、私はそう断言できると思う。
~ナティエ&ピアンチコフスキ編/笠羽映子訳「ブーレーズ/ケージ往復書簡1949-1982」(みすず書房)P186
若きブーレーズが盟友ジョン・ケージに宛てた手紙の一節だ。
日本語への訳出が正直あまりうまくなく、すっと理解できないのだが、要はシェーンベルクは、本人が生み出した十二音技法を、その入り口だけを汲み取っただけで、完璧に有効活用できていないと言い、音楽作品にとって重要な、存在意味のある統一性に劣っていると言い切っているのである。
しかし、ブーレーズにとって「モーゼとアロン」は重要な作品だった。
後に彼は、ワーグナーの楽劇をとり上げ、次のように語っている。
わたしは、テクストに対して必要な緊張を与え、また楽劇の中に求める場所を与えたつもりである。テクストは動きや、演劇的な対話の自然なリズムを持ち、たえず違ったものになっていく抑揚を持つべきものである。歌手はメッツァ・ヴォーチェで語り、ささやき、表現しなければならないのであり、いらいらさせる単調な、しかしながら伝統的とされるヴァーグナー上演に特徴的などなり声にこだわることはできないのだ。
~ヴェロニク・ピュシャラ著/神月朋子訳「ブーレーズ―ありのままの声で」(慶応義塾大学出版会)P123
ワーグナー演奏に限らず、ブーレーズにとって緊張や「演劇的な対話の自然なリズム」、抑揚は必要不可欠だった。その点、歌劇「モーゼとアロン」(旧盤)はそのすべてを満たしているように思う。
第2幕の第3場の狂乱の表現は、新盤のそれを圧倒的に凌駕する。
私的にはこのオペラの真骨頂がこの箇所であり、この場を表現するためにシェーンベルクはオラトリオという形式を止め、オペラにしようと決意したのではないかと思えるくらい。
文字通り、テクストに対して「必要な緊張」と適度な「抑揚」が幅を利かせる名場面だと僕は思う。
これこそ黄金なる材料、
それをあなたたちは捧げたのだ。
私がこの材料に与えた形態は、
他のすべてと同様に、
一見して移ろうもの、二次的なものである。
この象徴の中で、あなたたちは自分自身を崇めるがよい!
(第2幕第3場「黄金の仔牛と祭壇」のアロン 長木誠司訳)
移ろう仮の世界にあって、仮の偶像、すなわち象徴の内にでしか自省できなかった時代にあってのアロンの内なる嘆きよ。そこに民衆はよりシンパシーを抱く。
結局、シェーンベルクを、シナイから律法の石板を持ち帰った後、約束の地を目前にして死ぬモーセのような人物と見なすことは差し控えよう。さらにシナイをヴァルハラと執拗に混同したがる人々もいるのだが(その間、金の仔牛のまわりの舞踏はまさにたけなわである)。たぶん私たちは《月に憑かれたピエロ》、そして羨望の的というレヴェルをはるかに越えた他のいくつかの作品を彼に負っている。
~同上書P186
アルノルト・シェーンベルクは神ではなかった、否、神ではないのだ。