チッコリーニのドメニコ・スカルラッティ「ソナタ集」を聴いて思ふ

scarlatti_ciccolini188ドメニコ・スカルラッティのソナタには祈りがあり、同時に遊びがある、いわば信仰と理性とがとてもうまく調和する形で共存するのである。それゆえか、現代の僕たちの心を、魂を捉えて離さない。
先日、王子ホールで聴いたアンジェラ・ヒューイットのスカルラッティはその選曲の妙味も含めて素晴らしかったのだけれど、どこか彼女の真面目な性格を反映してか、「遊び」の部分が少なかったように思った。
そう、スカルラッティのソナタは確かに格調高い逸品なのだけれど、そもそもがマリア・バルバラ王女のための練習曲として拵えられたものだということを考えると、それこそもっと即興に近い「のりしろ」が欲しいと僕は思うのである。

ルーベンスタインが著した「中世の覚醒」の結論には次のようにある。信仰と理性の融合ではなく、調和なのだと。彼曰く、調和には創造的な緊張が在るという。なるほど「眼から鱗」。スカルラッティの面白さは、小さな音楽の内側に常に創造的緊張が横たわることだろう。そして、そのことをとても巧く表現したのが古くはホロヴィッツであり、新しくはポゴレリッチであるのかも。

世界の経済力と軍事力が前例のない速度で少数の有力エリートの手に集中するにつれて、信仰も理性も、自己の権力を露骨に拡大強化しようとする勢力の道具と化そうとしている。
こうした情勢のもとでは、信仰と理性というかつての配偶者たちは、彼らの結婚生活が波乱万丈だったにもかかわらず、復縁する可能性を夢見ずにはいられない。理性はきっと地球を変容させられるだろう―もし、科学と技術が新しいグローバルな道徳によって鼓舞され、導かれさえするならば。信仰はきっと世界に広まり、成熟するだろう―もし、世界の諸々の宗教が社会と自然の長期的な動向に真摯に立ち向かい、グローバルな道徳の創造に一役買いさえすれば。そして―信仰と理性の分裂は一人一人の人間も分裂させているがゆえに―私たちは他者に対してもっと愛情深く有用な存在になり、自分自身にもっと満足するようになれるだろう―もし、私たちが信仰と理性という人間の根本的側面を調和させることができさえすれば。
調和させるのであって、「融合」させるのではない。なぜなら、私たちが復活させたいと夢見ているのは、信仰と理性のあいだの創造的な緊張であり、偽りのアイデンティティの類ではないからだ。
リチャード・E.ルーベンスタイン著/小沢千重子訳「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ」(紀伊國屋書店)P443-444

先般亡くなったアルド・チッコリーニが若き日に録音したスカルラッティ集も素晴らしい1枚。

ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ
・ハ長調K.406, L.5
・ニ長調K.9, L.413「田園」
・ニ長調K.492, L14
・ホ長調K.380, L.23
・ロ短調K.87, L.33
・イ長調K.268, L.41
・ニ短調K.64, L.58
・ト長調K.259, L.103
・ハ長調K.159, L.104「狩」
・ロ短調K.377, L.263
・ヘ短調K.239, L.281
・ト長調K.432, L.288
・ニ短調K.1, L.366
アルド・チッコリーニ(ピアノ)

スカルラッティのソナタの魅力は、一見明るさの中にある翳、逆に暗鬱な中に潜む希望という、後年モーツァルトが体得していた「陰陽」併せ持つ音楽性にある。
チッコリーニは選曲や並びにも注意を払い、その光と翳を真に巧く表現する。
例えば、ニ長調K.9, L.413にみる深い哀感はいかばかりか。そして、続くニ長調K.492, L14のあまりに人間らしい愉悦の表情と堂々たる風格に生の謳歌を僕は感じる。
あるいはまた、ホ長調K.380, L.23の軽やかなファンタジーに心の扉を開かれるよう。

 

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3 COMMENTS

畑山千恵子

チッコリーニ最後の来日となった昨年6月、聴きに行ってよかったと思います。あの時のブラームス、4つのバラードは絶品でした。

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