最初に聴いた演奏がヨーゼフ・シゲティのものだったというのが運の尽き(?)。
その音は決して美しいとはいえず、しかしそれを評論家の先生方は求道者の如くの峻厳さなどと宣うものだから、高校生の僕は鵜呑みにして、アナログ・レコードを購入した。40年前のこと。
確かに擦り切れるほど聴いた。当時、僕は比較の対象を持たなかったものだから、とても満足して聴いた。何よりヨハネス・ブラームスの音楽の素晴らしさに惚れた。
元来が技術的に欠陥を持った人なので、70歳に近い老齢での演奏であってみれば、その衰えは痛々しい。音もかすれ気味だし、ヴィブラートも粗くなりすぎ、音程が絶えずゆれているので、気になる人もいるだろうが、内容表現の深さはそれを補ってあまりがあり、むしろ純音楽美に欠けるぶん、かえって人間の心が痛切に伝わってくる。
(宇野功芳)
~PHCP-9600ライナーノーツ
宇野さんが当時よく書かれていた「精神性」云々ということだと思うが、そんなことも高校生の僕には(正直)理解不能だった。僕は、ただひたすら音楽の素晴らしさに聴き惚れていた。
演奏の印象は今も変わらない。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭、ハーバート・メンゲス指揮ロンドン響による管弦楽提示部の彫りの深い、堂々たる威容にあらためて感激。そして、シゲティの独奏ヴァイオリンが入るやあくまで伴奏者に徹し、見事なサポートを施してゆく(ヨアヒムによるカデンツァも色気のない赤裸々な音が一層の真実味を照らし出している)。
素晴らしいのはホルショフスキとのソナタ第2番イ長調。創造者として最盛期のブラームスの、一分の隙もない完璧なる室内楽デュオ。第1楽章アレグロ・アマービレの水も滴るような抒情。そして、第2楽章アンダンテの動と静の対比をどちらかというとホルショフスキが引っ張るという形で進められる妙。終楽章アレグレット・グラツィオーソの、深沈たる趣でありながら、透明感のある歌に目が覚める。
さて、アポステルガッセには心の鐘が鳴り響き、待ちに待った音楽祭が始まった。水曜日(1886年10月20日)にはわが家で、マリーエ・ゾルダートとブラームスにより、新作の《ヴァイオリン・ソナタイ長調》が演奏された。・・・
全員が感動してブラームスも上機嫌。その翌日ブラームスが、コンサートでソナタを一緒に演奏しようと申し出たので、ハウスマンは大喜び。二人で一緒にグートマンの事務所に行き、コンサートは11月(24日)に決まった。
(リヒャルト・フェリンガー「素晴らしき調べ―ブラームスの響き」)
~ホイベルガー、リヒャルト・フェリンガー著/天崎浩二編・訳/関根裕子共訳「ブラームス回想録集2 ブラームスは語る」(音楽之友社)P247
おそらくこのときを髣髴とさせるような、シゲティ&ホルショフスキの名演奏。