朝比奈隆指揮大阪フィル ベートーヴェン第8番(2000.9.24Live)ほかを聴いて思ふ

交響曲第7番、そして第8番公開初演を2週間後に控え、フランツ・ブルンスヴィック伯爵にあてベートーヴェンは次のように書いている。

僕はといえば、そうだ、なんとわが王国は大気の中にある。しばしば風のごとく音が響きわたる。魂のなかでも響きわたる。—君を抱擁する。
(1814年2月13日付、ブダのフランツ・ブルンスヴィック伯爵宛)
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(下)」(岩波文庫)P15

聴覚を失いつつあるベートーヴェンの苦悩と、それでも魂から音楽を感じとる根源の力。

1812年、いわゆる不滅の恋人との逢瀬、手紙のやりとりの中でベートーヴェンが体験した心の揺れと葛藤は並大抵のものではなかった。そういう最中に書かれていた、全知全能の集積、完全なるシンフォニー、交響曲第8番の奇蹟。

9月か10月に書かれたと思われる手記は苦渋にみちたものである。
「忍従、おまえの運命に対する心の底からの忍従!・・・ああ、過酷なたたかい!」
「おまえは、もう自分のための人間ではありえない。ただ、他人のための人間でしかありえない。おまえの幸福はおまえ自身の裡と、おまえの芸術のなかのほかにはない。

小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(上)」(岩波文庫)P269

世界が、(色恋沙汰すら)幻であると悟った瞬間のようでもある。
すべてが類稀なる創造力によって調和するのだということをベートーヴェンは知った。

ベートーヴェン:
・交響曲第8番ヘ長調作品93(2000.9.24Live)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1976.3.11Live)
・「エグモント」序曲作品84(1976.3.11Live)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

2000年の第8番が素晴らしい。
いつもながらの朝比奈節は、思った以上に若々しい印象を与えてくれる。

傑作第2楽章アレグレット・スケルツァンドについてかつて朝比奈隆はこう語った。

これはあとにも先にも音楽の歴史上、こんなシンフォニー楽章は2つとないでしょうな。どこから考えついたんでしょうね。メトロノームから思いついたなんていう話はちょっといい加減な・・・(笑)。
朝比奈隆+東条碩夫「朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社)P178

御大の言うとおりである。もはやベートーヴェンの閃きは、目先の何かに触発されてのものではないはずだ。この楽章に関し、朝比奈は徹底的にインテンポで進むべきだと諭す。中でこんな喩えがある。

オーケストラを馬にたとえたら大変失礼ですけど、私は馬をやってたことがあるんです。競馬じゃありません。普通の軍隊の馬。その時教わったのは、馬は走らせてはいかん、馬は走らせるものじゃなくて、馬が自分で走るようにしむけるものだと。馬がいちばん走りやすいような姿勢で、何もしないで乗っている騎手がいい騎手なんだ、お前が上でじたばたするから、馬が速くなったり遅くなったりするんだと。
つまり馬の方がこっちを信用しなくなるんです。こっちが乗っていても、道端の草なんか平気で食い始めますからね。道草を食うってのはそこからきたんですよ(笑)。私らが若い時には東京の道にも草が生えていましたから。そうすると教官の馬は草なんか食わないのに、われわれの馬はしょっちゅう首下げて食うんです。向こうの方から教官が「コラッ、馬に草食わすな!」って。「いや、馬が勝手に食っとるんであります」なんて言うと、鞭でバシーン。乗り手のいい馬は絶対食わないです。見習いみたいなのが乗っていると駄目なの。馬がこっちを馬鹿にするわけです。
オーケストラと指揮者との関係も似たようなものでしょう。だから指揮者がオーケストラを信頼して、無理に追い立てたり引き止めたりしないように。上で強引にドライブされたら窮屈でしょう。といって、上がたるんだら下もたるみますからね。

~同上書P179-180

「関係」の神髄を捉えた良い話だ。朝比奈隆のこの原体験こそが、彼の作り出す音楽の魅力の鍵なのだとあらためて思う。
表現が難しいとされる終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェが白眉。朝比奈をして「このフィナーレがちゃんとできたら、相当なものでしょうな」と言わしめた、単なる技術的な問題はない「難しさ」がここにはあるという。最晩年の演奏は、脱力の極み。名演だ。

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