楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕第1場、ハンス・ザックスは次のように語る。
思い込み!錯覚!
至る所、はかない幻想だ!
どうして人は無益に怒り
とことんまで
自分を痛めつけ苦しめるのか、
その原因を探ろうと、
町の編年史や世界の年代記を
調査・研究しても、至る所はかない幻想だ。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集第1巻」P338
靴屋のザックスは自省し、そして、世界を客観視する。彼の審美眼はそれゆえ正しい。そして、最終場において騎士ヴァルター・フォン・シュトルツィングがマイスターの称号を激しく拒絶するのに対し、ザックスはまたこう語るのだ。
マイスターたちを軽んじてはいけません、
彼らの技芸を尊敬してください!
彼らの賞賛や評価が、(今日は)あなたにとって有利だったのですよ。
あなたの今日の最高の幸運は、あなたの先祖、紋章、槍や剣のお蔭ではありません、
それは、あなたが詩人であること、
そして一人の親方があなたをマイスターに昇格させたことによります。
ですから感謝をもってよく考えてください、
そのような賞を授けるマイスターゲザングの技芸が無価値なものだなんて、
どうしてあり得ますか?
~同上書P368
人間の価値は名誉や財産でなく、本性の美しさなのだとマイスターは断言する。
そして、感謝をもって事に当れと言うのだ。
ちなみに、清水多吉は「マイスタージンガー」について次のように分析している。
とくにこの楽劇の第3幕第3場で歌われるドイツ芸術の讃歌は、長い間、民族感情高揚のために強調されてきた。だが、この場面も、もう少しく視点をかえてみれば相貌が一変する。たとえば靴屋ハンス・ザックスと青年騎士ヴァルターとを対比させてみればよい。ハンス・ザックスはマイスターの一人であり、市民階層を代表する。これに対して青年騎士ヴァルターは、おそらく帝国騎士団所属の貴族であろう。ハンス・ザックスらにとっては、騎士どもは戦争にあけくれている連中であり、言うならば無為徒食の連中である。ドイツ精神、ドイツ芸術は、彼ら騎士どもによって担われているのではなく、ハンス・ザックスらマイスターたちによって担われている。少なくとも、マイスターたちにはそのような自覚と自負とがある。であればこそ、「神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)」が滅びても、ドイツの芸術はマイスターたちの手によって生きのびていくことが出来るのだ」と、ハンス・ザックスは歌うことができたのである。この側面を強調すれば、この楽劇は、自由思想の鼓吹とも、いや反戦思想の鼓吹とさえも色づけすることができる。
~清水多吉著「ヴァーグナー家の人々―30年代バイロイトとナチズム」(中公新書)P181-182
論の是非はともかく、ワーグナー芸術の懐の深さを、僕は直観する。
晩年の「再生論」を待たずして、すでにワーグナーの内側には人類の危機の自覚と、いかに解脱の道に進むのかという意志が「マイスタージンガー」作曲の時点であったのだ。
2時間近くに及ぶ第3幕を聴く。
全編にわたり、ともかく音楽が生きている。舞台ノイズが余計に楽劇の臨場感を煽る。絶品だ。これを聴かずして「マイスタージンガー」を語るなかれ、そしてまた、カール・ベームを語るなかれ。
特に、第4場での、ギネス・ジョーンズ扮するエーファの歌唱の素晴らしさ。
そして、最終場における、カール・ベームの鬼神が乗り移ったような迫真の指揮に魂までもが熱くなる(ライヴの人ベームの真骨頂)。
鼓舞だ、発揚だ。確かにこの音楽には人の心を煽動する力がある。終演後の聴衆の凄まじい拍手に感無量。