
趣味で音楽にのめり込む中で、溢れんばかりの情報に左右されてきた自分にほとほと嫌気が差す。試みに、演奏者名を伏せて音楽を聴いてみるとわかる。人間というもの、名声や性別やキャリアや、そういうものにどれほど影響を受けてしまっているか。
今になってようやくアルフレート・ブレンデルの素晴らしさに気がつくという愚かさ。
ムソルグスキーの傑作組曲「展覧会の絵」の、思念を取り除いた、音楽の純粋美。こんな風に表現されたら、盾突く隙がない。いや、こういう無垢な演奏を人は没個性だと評するのかもしれないけれど。何より煌めく音の粒に感無量。ムソルグスキーはもっと破天荒に、野性的に表現すべきだという声もあろうが、色のない、無臭の「絵」に僕は言葉を失う。
それにも増して素晴らしいのは、フランツ・リストの諸曲。
特に、晩年に生み出された作品の根底に刻まれる、超自我の信仰の思いの崇高なる音化。それは、意図してできる業ではないだろう。ブレンデルがリストの音楽に純粋に感応し、そして晩年のリストの心境に畏怖の念を抱くからだろうか。
1880年代、晩年のリストは、怪我の後遺症や身体的病に常に悩まされていたという。ほとんど視力を失いつつある中で作曲活動に勤しんでいたというくらいなので、その音楽は若き日の単にヴィルトゥオジティ重視の音調とは異なる、(日本的に言うなら)侘び寂の極致のような印象が強い。
リストの芸術の目的は、生きている愛しき人々を光で照らし、亡くなった愛しき人々を“精神的にも肉体的にも”安らかに眠れるようにすることだったそうだ。
ブレンデルは、特にそういうリストの音楽を評価した。
リストは宗教色のあるピアノのための作品を書いた最初の作曲家で、私はこうした彼のピアノ曲のほうがオラトリオやミサといった宗教曲よりも説得力があると思います。彼のこうした作品を弾いていると、書かれている内容を信じる気持ちになれます。不可知論者で懐疑主義者の演奏家でもそのような気分になれるのです。水面を歩いたり、鳥に説法をして、彼らが羽根をわずかに動かすだけで静かに聞き入るようにもっていくことができるリストの音楽家としての本質がそこにあるのです。リストは演奏家として不可能を可能にすることができた人でした。
~マルティン・マイヤー著/岡本和子訳「対話録『さすらい人』ブレンデル リストからモーツァルトへの道程」(音楽之友社)
感動的な「心を高めよ」の、文字通り魂を鼓舞する音楽の厳かな思念。
あるいは、「祈り」の信仰への確信!