マッケラス指揮ウィーン・フィル ヤナーチェク シンフォニエッタほか(1980.3録音)

今年はサー・チャールズ・マッケラス生誕100年の年。
チャールズ・マッケラスといえば、僕の最初の記憶は、「レコード芸術」誌上で、ヤナーチェクの歌劇「利口な女狐の物語」がレコード・アカデミー大賞に選ばれたことだ。
残念ながら、当時、高校生の僕はヤナーチェクを知らず、ましてオペラなどというとあまりに敷居の高いものだという認識だったので、恐れ慄いて、その音盤のことはまったくスルーしてしまった(高価なセットものに手が出なかったこともある)。

マッケラスの「利口な女狐の物語」を聴いて思ふ マッケラスの「利口な女狐の物語」を聴いて思ふ

そして、その数年後、大学生になった僕はまったく別のルートからヤナーチェクの存在を再確認することになる。エマーソン・レイク&パーマーのファースト・アルバムに収録された「ナイフ・エッジ」である。そこでは、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」がモチーフになっていた。

“Emerson, Lake & Palmer”を聴いて思ふ “Emerson, Lake & Palmer”を聴いて思ふ

その頃、僕はいわゆるプログレッシブ・ロックにはまった。イエスやキング・クリムゾン、はたまたピンク・フロイドの音楽の洗礼をそこで受けた。それによって僕は、結果的に20世紀のモダニズムといわれる難解な(?)音楽から現代音楽までを網羅し、興味を抱き、いつの間にか、20世紀の音楽の素晴らしさと理解するようになった。
それからはとにかく何でも聴いた。
そして、音楽に貴賤はないことを悟った。

20年ほど前だったか、マッケラスによるヤナーチェクの歌劇をまとめた格安のセットがリリースされ、本格的に聴いてみようという気になった(「イェヌーファ」と「利口な女狐の物語」は80年代の後半に手に入れていたけれど、きちんと聴き通せていなかった)。

マッケラス指揮ウィーン・フィルのヤナーチェク「イェヌーファ」(1982.4録音)を聴いて思ふ

彼のオペラはどれもが実に文学的とでも表現すれば良いのか、ヤナーチェク独自の、他にはない孤高の世界が繰り広げられており、僕はとにかく感動し、繰り返し聴いた(吉田秀和さんが好きな曲の一つに歌劇「利口な女狐の物語」を挙げられていたが、これがまた名エッセイで、この本を片手に、僕はヤナーチェクのオペラを聴いたのだった)。

マッケラス指揮ウィーン・フィルのヤナーチェク「マクロプロス事件」(1978.10録音)を聴いて思ふ マッケラス指揮ウィーン・フィルのヤナーチェク「マクロプロス事件」(1978.10録音)を聴いて思ふ マッケラスのヤナーチェク「死者の家から」を聴いて思ふ マッケラスのヤナーチェク「死者の家から」を聴いて思ふ

その前に、私はアムステルダムで『死の家の記録』、それから(どこだったかで)『イェヌーファ』をきいていた。前者はヤナーチェクの最晩年、というより文字どおり最後のオペラであり、作曲されたのが20世紀ももう20年代の終わり、1927年から8年にかけてであるのに対し、後者は1894年から1903年にかけてのほぼ10年を費やしての作品であり、これがヤナーチェクの名を決定的なものにした舞台作品だった。
P107-108

その後の何回かのヨーロッパ旅行でも、機会があって、ヤナーチェクをきくことがあり、特にオペラでは『カーチャ・カバノヴァー』は、たぶん、どこかできいたはずである。これは『イェヌーファ』とならんで、いわばヤナーチェクの自然主義的社会批判的オペラの二つの頂点だろう。人によっては、芸術的にも、この二作を最も高く買うようだ。
だが、私がヤナーチェクの天才のいちばん魅力的な面にふれたと感じ、彼について今にいたるまで最も忘れがたい体験をしたのは、1968年の「プラハの春」に出かけて行って、さらに『ブロウチェク氏の旅行』と『利口な女狐の物語』をきいたときだった。このときは、『イェヌーファ』も重ねてきき、それはまたずいぶん名演だったのをおぼえている。しかし、その名演をもってしても、新しくきいた二つの作品の魅力には抗しがたかった。この二作には、『イェヌーファ』の力強さのかわりに、「詩」があった。
特に『女狐』。

P108
「吉田秀和全集11 私の好きな曲」(白水社)

この後、このオペラの美しさ、チャーミングさを吉田さんは滔々と語られているのである。
しかも、次のような文言まで出てくる始末である。

こういうオペラを、きいてみたくありませんか? どんな音楽を、読者は想像されるかしら?
その音楽には、挿絵的説明はちっともないのである。それはまったく不思議な音楽であって、半音階でなく、全音音階もまじえたディアトニックの音楽であり、そこには教会旋法もふんだんに出てくるのだが、一切は、まったく成心のない
風のように必然の法則に従いながらも、自在に吹き通う音楽になっている。

~同上書P113

こんな文章を読まされて、そのままスルーしてしまう輩がいるのかどうなのか。
(実際「利口な女狐の物語」は素敵なオペラだ)

マッケラスのヤナーチェク「カーチャ・カバノヴァー」を聴いて思ふ マッケラスのヤナーチェク「カーチャ・カバノヴァー」を聴いて思ふ

確かに僕はこのセットによってヤナーチェクのオペラに開眼した。
そしてまた、十数年を経て今、何と付録の管弦楽曲をきちんと聴き通すことを忘れていたことに気づいたのである。

ヤナーチェク:
・シンフォニエッタ(マッケラス校訂原典版)(1926)
・ニコライ・ゴーゴリによる狂詩曲「タラス・ブーリバ」(1918)
 アンドレイの死
 オスタップの死
 タラス・ブーリバの予言と死
サー・チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1980.3録音)

後年の、(どちらかというとモラヴィア的な土臭さが先行する)チェコ・フィルとの再録盤に比較して、ウィーン・フィルらしい美音を湛えた、瑞々しい音調と情緒に溢れるこちらの録音に僕は軍配を上げる。

マッケラス指揮チェコ・フィル ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」(2003.5.22Live)ほか

特に、「シンフォニエッタ」!!
5つの楽章で構成され、しかも、時々刻々と音調が変化する様子は、音楽を聴く(音楽をする?)喜びここにありとでも表現すべき忙しさ(?)で、それがまた実に自然の流れに沿った、違和感のない、一切の恣意性のないもので、第3楽章など僕のお気に入り。
もちろん第5楽章のフィナーレの歓喜は言うことなし!
サー・チャールズ・マッケラス万歳!

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