サロネン指揮フィルハーモニア管 ストラヴィンスキー バレエ音楽「火の鳥」(1910年版)(1988.6.9録音)

冷たい。しかしそれは、あくまで外面のことだ。音楽の進行とともに内なる熱狂が渦巻くのがよくわかる。ただし、その熱狂はいつまでも外に放出されることがない。思念という枠の中で自由自在に飛翔するのである。

その意味では少々窮屈だ。もっと解放してしまえば楽だろうに、音楽は一向に拡がらない。たぶんそれは録音のせいもあるのだと思う。ストラヴィンスキーの音楽は実演に触れるに限る。まして指揮がエサ=ペッカ・サロネンとなるとなおさらだ。

静寂(パウゼ)からの解放。宙から音が紡ぎ出される瞬間の透明感は他を冠絶する。録音ですらそのことが見えるのだから彼の振るストラヴィンスキーは超逸品。完璧に整理されつくした中での即興的試みは、サロネンならでは。

ストラヴィンスキーは、かつてハーバード大学における詩学講座で次のように語った。

作品の運命はおそらく、結局は公衆の趣味、公衆の気分や習慣の変動に依存します。つまり、一言で言えば公衆の判定や最終判決ではなく、選り好みに依存します。
次のたいへん重要な事柄に注意してください。つまり、一方で、ある芸術作品の構成が要求する意識的な努力や忍耐強い組織化を、他方で、その提示に付きまとう必然的に即興的な判断の少なくとも性急な性格を検討すべきです。作曲(構成)する人間のさまざまな義務とその人物を判断する人々の諸権利のあいだにある不均衡は一目瞭然です。というのも、公衆に提供される作品は、その価値がどうであれ、つねに即興とは正反対のものを意味する研究や推論や計算の果実だからです。

「第6課 演奏について/エピローグ」
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「音楽の詩学」(未來社)P124

堅牢な構成の中にある即興性こそが音楽の醍醐味だと巨匠は言うのである。閉じられた世界の中でいかに自在に飛翔するかが鍵であり、公衆の作品の価値判断の中では少なくとも即興性が無視される傾向があることを彼は嘆くのだ。おそらく、作曲家サロネンも同様の想いを持つことだろう。だからこそ彼の指揮する音楽の中に、冒頭に書いた「思念という枠の中の自由自在な飛翔」が感じられるのだと思う。しかし、やっぱり録音は録音に過ぎない。

ストラヴィンスキー:
・バレエ音楽「火の鳥」(1910年版)(1988.6.9録音)
・バレエ音楽「かるた遊び」(1988.6.23録音)
エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

導入の弱音の絶対美から終曲「カスチェイの城と魔法の消滅、石にされていた騎士たちの復活、大団円」の大轟音までのレンジの広さと色彩豊かな音響が繰り出す音の魔法はストラヴィンスキーの天才の成せる業だが、それを見事に音化するサロネンの方法も絶品。しかし、繰り返すが、やはり録音には限界がある。サロネンは実演で聴くべき指揮者だとあらためて思う。

私はロシアの音楽家—革命音楽家ストラヴィンスキーを聴いたのだ。実際には、音楽作品そのものに聴き入るだけで十分である。その楽曲が強烈であれば、聴く人はすぐそこに迫力を感じるのである。迫力は他に伝播していく。余計なことを考えずに、ただその音楽作品を聴くだけだ。人はよく作品と、作品が生まれた状況とを混同する傾向がある。「火の鳥」は、1910年、ロマンティック・バレエに訣別を告げようと試みた—それだけでも悪くはない時代に作られたものだ。
前田允訳「モーリス・ベジャール自伝 他者の人生の中での一瞬・・・」(劇書房)P98

聴く者はただ無心に音楽に耳を傾けよとベジャールは言う。それが音楽の革命となるならなおさら。

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