
カラヤンはオペラの指揮に命を懸けていた節がある。
1961年のウィーン国立歌劇場での「パルジファル」の熱量と集中力。
音楽への類稀なる求心力は、ワーグナーが最後の大作に込めた思いと連動するかのようだ。
カラヤン指揮ウィーン国立歌劇場管のワーグナー「パルジファル」(1961.4.1Live)を聴いて思ふ そのことは、「1882年の舞台神聖祝祭劇」を読めばわかるだろう。
俗物(?)カラヤンにあって、少なくとも当時、「パルジファル」という作品に向き合うその瞬間は人々に感動を与えるという聖なる思いでいっぱいではなかったか(そんなはずはないか?)。
ウィーン国立歌劇場を辞任して以来、カラヤンは、オペラの指揮が少なくなったことに物足りなさを感じていた。そこで、1967年3月19日(復活祭直前の日曜日)の午後5時、ザルツブルクで、第1回目の復活祭音楽祭を開催する。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P274
1960年代は芸術的な点からカラヤンの絶頂期だったと思う。
特に歌劇の分野では右に出る者はいなかったのではなかろうか。
カラヤンは、体を酷使し過ぎていた。1963年12月、ミュンヘンで《フィデリオ》を上演したあと、彼は突然失神する。急激に起こった循環器障害のためで、長期の療養が必要となった。ウィーン国立歌劇場では、彼の地の官僚主義と、支配人のエゴン・ヒルベルトとの仕事の上での絶え間ない衝突に嫌気がさして、1964年6月にシーズンが終わると「健康上の理由」により辞任し、再びオーストリアで指揮することはないだろうと告げる。
~同上書P272
もちろんウィーン・フィルとの永遠の別れではなかった。
1974年6月、楽友協会の理事たちの幾度もの依頼に応えて指揮するようになったのである。
第3幕の、パルジファルに洗礼を施すグルネマンツの告白。
グルネマンツ
(感きわまって)
おお、恩寵よ! いと高き救いよ!
ああ、奇蹟だ! ありがたや、奇蹟のきわみだ!
(我に返って、パルジファルに)
おお、御身が道を踏み外されたとしても
どうか御安心あれ、
その呪いも解けましたぞ。
あなたのおられる、ここはグラールの神域
聖杯の騎士たちは、待ち侘びておりました。
ああ、騎士たちの救いを
あなたのもたらす救いを切に求めています。
ここに立ち寄られてこのかた
あなたも目にされた球場が嵩じて
とうとう無惨きわまることになったのです。
身と心を苛む苦しみに抗っていた
アムフォルタスは自暴自棄に陥り
頑なに死を願うようになりました。
騎士たちの懇願も、彼らの惨状も
二度と王を聖務につかせることはできなかった。
グラールは久しく厨子にしまわれたまま。
おのが罪を悔いる守護者は
ひとたび聖杯を仰げば
死もかなわぬとあって
いっそひと思いにけりをつけ
命と引きかえに苦しみを断とうと願った。
~日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P91
パルジファルとグルネマンツの関係が逆転するこの瞬間の、グルネマンツに扮するハンス・ホッターの歌唱が、いかに柔和で尊敬に溢れるものに変化していることか。この、情感こもる声色の変化はホッターならでは。
聖金曜日の奇蹟が起こる。
ここからフィナーレまでの集中力と、崇高なる響きはこの公演の白眉だ。
その場に居合わせた幸運な聴衆が羨ましい。
中でも、ヴェヒター扮するアンフォルタスの荘厳な歌唱!
